ロマン主義的歪曲からの解放~ギーゼキング

モーツァルト:ピアノソナタ全集・・・(P)ギーゼキング 1953年録音

2005年3月27日 更新

Walter Wilhelm Gieseking

ギーゼキングといえば即物主義の代表選手のように言われます。
彼こそはモーツァルトをロマン主義的歪曲から救い出して、現在のモーツァルト演奏への道を切り開いた存在として、とりわけこのソナタの全曲録音は長くスタンダードな位置にありました。

始めに、少しばかりロマン主義的歪曲についてふれておきたいと思います。

何年か前に「海の上のピアニスト」という映画が公開されました。
その中で「ピアノ競争」というのが演じられるシーンがあり強く印象に残っています。おそらく見られた方もいると思うのですが、あそこには19世紀におけるピアノの名人とはどういう存在であったかがはっきりと示されていて強く印象に残るシーンでした。

それは、例えばショパンのワルツを何秒で演奏でできたとか、ただでさえ難しい作品をさらに難しく編曲してその名人芸を誇示するとかそういうたぐいのもだったのです。
ショーンバーグの言葉を借りれば、ピアノ演奏の価値は「最小の時間に最大に音符を弾くこと」で評価されていたのです。

そこでは音楽作品というのは、そういう人間離れした名人芸を披露するための道具、手段でしかなかったのです。今でも前世紀の名人として伝説になっているような、例えばホフマンやゴドフスキー等というピアニストはそういう修羅場をくぐり抜けて名声を獲得したピアニストでしたそして、おそらくは、ラフマニノフなんかもそういう環境の中で生き抜いたピアニストだったのでしょう。

ですから、貧弱な録音ではありますが、わずかに残されている彼らの演奏を聞いてみれば、驚くほどにドライな解釈であること驚かされます。そしてテクニックはその後に続くコルトーやシュナーベルなんかよりは遙かにしっかりしているように聞こえます。
しかし、さらに聞き込んでみると、そのドライさはさらにその後に続くギーゼキングなどの即物主義のピアニストたちのドライさとも雰囲気が違います。
それは、どこかスポーツ選手が名人芸を披露しているようなあっけらかんとしたドライさです。

さて、こういう一群のピアニストの対極にバッハマンやパデレフスキーに代表されるようなとんでもなく主観的な演奏を展開したピアニストたちがいました。
これも貧弱な録音で確かめるしかないのですが、実に好き勝手に演奏していることは分かります。

テクニックという点ではホフマンたちのグループの足元に及ばないことはすぐに分かります。というか、楽譜に書かれてあるとおりに正確に演奏する必要性を感じていないかのような演奏であり、その時々の気分によって弾きたいように弾くというピアニストたちです。
ただし、こういう演奏はツボにはまると麻薬のようなもので、一部に根強く熱烈な支持者が存在しますのでこれ以上あれこれ申し上げるのはこの辺で止めておきましょう。

即物主義の登場

こういう時代背景の中から生み出されてきたのが即物主義という考え方です。

鋭い人はすでに気づかれていると思うのですが、ホフマンのグループとバッハマンのグループは対極にあるかのように見えて、実はメダルの裏表の関係です。

それはかつての自民党と社会党が保守と革新という対立軸を作り出しているように見えながら、実はともに同じ穴の狢だったというのとよく似ています。
もしくは桜田門と山菱が同じ旅館で忘年会をしたときに、誰がどっちの構成員か分からなかったという笑えないような笑い話とも似ています。ちょと、違うかな・・・(;=ゝ=)

つまり、両方とも音楽作品は目的ではなくて手段になっているという点で同じ穴の狢なのです。
ホフマンたちは音楽作品を己のテクニックを誇示するための道具にしましたし、バッハマンたちは己の主観的感情や気分を顕示するための道具にしたのです。

ですから、シュナーベルからギーゼキングにつながっていく即物主義の流れは、その様な演奏家と作曲家の関係を180度転換させるものだったのです。作曲家等という存在はどこかに忘れ去られ、その作品さえもが音楽とは全く別の何者かを誇示するための道具に貶められていたものをもう一度拾い上げて、今度は演奏家がその作品に仕えようと言うのが即物主義の意味するところだったのです。

ですからシュナーベルもギーゼキングもまずは謙虚にスコアと向かい合うことが基本でした。そして、己のテテクニックや感性はそのスコアに込められた作品の真実を再現するための手段として捧げられるようになったのです。

確かにこういう風に書いてしまうとあまりにも歴史を簡略化しすぎているかもしれませんし、「作品の真実」なんてのもずいぶんとお手軽で曖昧な物言いではありますが、本質的なものはそれほどはずしてはいないはずです。

そして、そういう歴史の中でギーゼキングを見つめ直してみると、このシンプルな上にもシンプルなモーツァルト演奏の本質が見えてくるはずです。
確かに、今日の贅沢な耳からすればもう少し愛想というか、ふくよかな華やぎというか、そういう感覚的な楽しみが少しはあってもいいのではないかと思う側面があることも事実です。
例えば、内田によるソナタの全曲演奏を聞けば、ギーゼキングと同じような透明感に満ちたモーツァルトでありながら、感覚的な楽しみにも不足はしていません。しかし、その様な内田の演奏も源流をたどっていけばこのギーゼキングの演奏に行き当たるはずです。

ただし、ギーゼキングの演奏に感覚的な楽しみが少ないと言ったのは半分は正解で半分は間違っています。
いわゆるテンポを揺らしたり派手なダイナミズムで耳を驚かせるというような「ヨロコビ」とは皆無と言っていいほど無縁ですが、彼の指から紡ぎ出される「音」には陶然とさせられるような「ヨロコビ」が満ちています。
それにしても、これは何という「音」でしょう。
それは同じように音色の魅力をふりまくホロヴィッツやミケランジェリたちの音色とも違います。とんでもなく透明感に満ちていながらガラスのようなもろさとは全く無縁の強靱と言っていいほどの硬質な響きです。そして、ピアノからこのような音色を紡ぎだした人は他には思い当たりません。

この「音」で、シンプルな上にもシンプルにモーツァルトが演奏されるとき、それは他に変えがたい魅力を21世紀になっても保持していることを否定できません。
それ故に、今もってこれはモーツァルト演奏の一つのスタンダードとしてのポジションを失っていないのです。