ヴァンデルノートという名前を聞いてある種の「懐かしさ」を覚える人は、よほど年季の入ったクラシック音楽愛好家でしょう。なぜなら、65年に来日して読売日響を指揮する颯爽とした姿を未だに懐かしく覚えている方もいるようですから。
もちろん私などは足元にも及ばず、ただ「知識」として知っているだけの存在です。
ベルギー人であるヴァンデルノートは、ベルギー国立管弦楽団、ベルギー王立劇場(モネ劇場)の指揮者を歴任し、さらには同郷のクリュイタンスの推薦もあってパリ音楽院管弦楽団の指揮台にもたびたび登場しました。そして、63年にはシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビューも果たし、彼のことをクリュイタンスの後継者と見なす人も多かったようです。
しかし、そのようなキャリアを捨て去るように、彼は67年にブラバンド管弦楽団というあまり有名とは言い難いオケの首席指揮者に就任し、その後はベルギー国内での活動に専念するようになって、世界的には姿が消え去ったような存在となってしまいました。
あれっ?これって誰かと似ていると思い当たった方がいれば、それもまたかなりのクラシック音楽通です。
そう、これってペーター・マークとそっくりです。
ペーター・マークは、1960年にデッカレーベルからロンドン交響楽団を指揮して録音したメンデルスゾーンの3番「スコットランド」で華々しいデビューを飾り、それ以後のスター指揮者への道が約束されていました。
その彼が、突然にドロップアウトしてしまいます。
簡単に経歴を振り返ってみると、1947年に地方の歌劇場を振り出しに、56年にボン歌劇場、65年から68年にはフォルクスオーパーと順調に出世の階段を登っていきます。特に、フォルクスオーパー時代の彼は人気も高く、70年代のスターの座は約束されていました。
その彼が、突如としてフォルクスオーパーを去り、活動の本拠をイタリアに移します。 そして、1983年からはイタリア北部の地方都市にある「パドヴァ・ヴェネト管弦楽団」と言う小編成のオーケストの監督に就任して、その仕事を亡くなるまで務めました。
世間的に見れば、完全なドロップアウトです。
このドロップアウトの背景には、ボンの歌劇場を去ってから、ウィーンのフォルクスオーパーの監督に就任するまでの2年半の休業期間に大きな原因があると言われています。
この休業期間に、彼は音楽を離れて香港の禅寺などに籠もって修行をし、世間的な評価よりは、自分にとって納得のいく音楽活動ができる事こそが大切だという価値感を見いだしたようなのです。
一見華やかに見えるスター指揮者の世界も、その内実は「ねたみ」と「そねみ」に満ち、その中を生き抜くためには、音楽とは何の関係もない社交に多大な時間を割かねばならないのが現実です。
結局、思い切って飛び込んだウィーンでの数年間は、外面的な華やかな成功とは裏腹に、彼の内面においてはそのような下らない現実をいやと言うほど知らされた数年間でしかなかったようなのです。
ウィーンを去った彼は、世間的な名利には背を向け、自分の納得のいく音楽活動ができる場所を求めてイタリアに本拠を移します。そんな彼が、長きにわたって良好な関係を保っていたのがパドヴァ・ヴェネト管弦楽団だったのです。
世間的には、ドロップアウトしたとしか言いようのない経歴の中で彼の音楽は確実にスケールアップしていき、最後の最後にこの上もなく素晴らしいモーツァルトの録音を残してくれました。
それなりに実力のある指揮者ならば誰もがやれそうに見えて、結局は誰もやれない見事なまでの音楽家人生でした。
しかしながら、ヴァンデルノートの方はマークと同じようにドロップアウトしたように見えても、晩年に残した音楽がかなり苦しいものになっています。そこが、マークとは決定的に異なります。
彼が晩年にベルギー・フランス語放送管弦楽団を指揮したライブ録音が世に流通したことがあるのですが、人によっては「なかったことにしたい」ような演奏らしいです。
そう言えば、彼とのコンビでモーツァルトのコンチェルトを録音したハイドシェクは、「演奏よりその後のビールにしか興味のない人物」と評していたそうです。
彼のドロップ・アウトの本当の理由は未だに「謎」らしいのですが、もしかしたらただの「飲んべえ」が原因だった可能性が大なのです。
<ただの「飲んべえ」でしょうか?>
ただし、彼が若手の指揮者としてキャリアを上っていこうとしている時代の録音には素晴らしいものがたくさんあります。
特に、1957年にパリ音楽院管弦楽団とのコンビで録音したモーツァルトの交響曲は素晴らしい演奏です。この時、ヴァンデルノートは30歳になったばかりです。
クラシック音楽の世界というのは「シルバーシート優先」という麗しい「伝統」があって、とりわけ指揮者というのは年を重ねるほど芸に深みが出てくると信じられています。ですから、一般的には、こういう駆け出しの指揮者の音楽などというものはそれほど注目されないものです。
確かに、こういう評価の仕方は概ね正しいことが多いのですが、その反面、そう言う「若者」にしか為しえない音楽の形というものも存在することは事実です。
そう言えば、人はその一生において同じものを三回見ると言った人がいました。
若いときには「発見」の喜びで見つめ、脂ののりきった壮年期にはそれを「確かめる」ように見つめ、そうして老年を迎えて「見納め」の思いで眺めるというのです。
そして、ヴァンデルノートが30歳そこそこで録音はしたモーツァルトは、そのような若者でしか為しえないようなほとばしるような、生命観に満ちあふれた「発見」の喜びで見つめた音楽になっていました。
モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調「リンツ」K386
ヴァンデルノート指揮 パリ音楽院管弦楽団 1957年録音
演奏の基本的なスタンスは、この時代を席巻していたザッハリヒカイトな音楽作りでしょう。一見すると、彼は指揮台で何もしていないように聞こえます。しかし、聞こえてくる音楽はこの上なくしなやかで生命観にあふれていて、そこにはザッハリヒカイトという言葉から連想される素っ気なさや硬直した雰囲気などは微塵も存在しません。
とりわけ素晴らしいのは、そのような演奏のベクトルと作品の性格がベストマッチした35番「ハフナー」と36番「リンツ」です。
次いで、38番「プラハ」も悪くないですし、41番の「ジュピター」も勢いがあって悪くないです。
ただし、モーツァルトの白鳥の歌と言われることもある39番は勢いだけでは処しがたく、40番のト短調シンフォニーでは、そのデモーニッシュなテイストを持てあましているのがはっきりと感じ取れます。
ですから、全てが全て二重丸とは言いませんが、それでもこの「ハフナー」と「リンツ」の録音を残しただけでも、ヴァンデルノートの名前を記憶にとどめておく価値はあると思います。
若さの魅力を意味ある成熟に結びつけることの難しさを見せつけるような事例ではありますが、それでも老残によって若き時代の輝きが損なわれるわけではありません。
ヴァンデルノートといえば思い出しました。
モーツァルト ピアノ協奏曲第27番のLPです。
(ハイドシェック(p)ヴァンデルノート/PCO〔+20番〕76/5 Ser-EAC30076)
30年ほど前に体調を崩して入院したのですが、退院するときに思ったことは、家に帰ったらこのレコードが聴きたいということでした。
このレコードは非常に聴きやすくて、愛聴盤になっています。
LPジャケットにはハイドシェックの紹介があるだけでしたが、ヴァンデルノートについては、私の頭の片隅にはありましたが、その人物について知らないままでした。
今日はエッセイを読ませていただきヴァンデルノートを知ることができて感激いたしました。
ペーター・マークと日フィルのCDが<タワーレコード限定盤>で出てます。
モーツァルト: 交響曲第39番&第41番, リハーサル風景(60分弱)付 (CD2枚組)
1963年9月30日~10月2日 フジテレビ・リハーサルスタジオ ステレオ録音
http://tower.jp/item/3184158/