今年(1998年)最大の痛恨事は、クラウス・テンシュテットの死です。
1998年1月1日 更新
旧東ドイツ出身の指揮者で、地方の歌劇場でキャリアを積み上げていった、典型的なたたき上げの人でした。
西側では全くの無名で、商業主義の全く埒外で自らの音楽を作り上げてきたため、より広い活躍の場を求めて西側に逃れたときは、すでに巨匠と呼ばれるにふさわしい力量を持っていました。
テンシュテットが、彼のオーケストラであるロンドン・フィルと初来日したのは、確か15年ほど前だったでしょうか。
大阪のフェスティバルホールで、二日続けて彼らのコンサートを聴く幸せに巡り会いました。初日のメインがマーラーの5番、二日目のメインがブラームスの1番でした。
マーラーに関しては、もう至るところで語られているように、本当に素晴らしい演奏でした。確か、NHK・FMが生中継したのではないでしょうか。
吉田秀和大先生がどこかで書いていたように、「日本のコンサートホールで鳴り響いた最高のマーラー演奏」でした。
さて、それはさておき、ここの本題はブラームスです。
正直に告白するとブラームスがどうにも苦手でした。
理由は簡単、音楽が地味で、その退屈さのため最後まで聞き続けるのが結構しんどかったのです。
「ブラームスはお好き?」と聴かれれば、躊躇せざるを得ませんでした。
実は、二日目のメインがブラームスだったので、決して安からぬチケット料金の関係もあって、行くべきかどうか悩んだのですが、最終的にはテンシュテットを聴きたくて出かけていくことにしました。
まず前半は、ハイドンの94番「驚愕」という超有名曲と、実にマイナーなベンジャミン・ブリテンの歌劇「ピーター・グライムス」からの「七つの海の間奏曲」でした。
ハイドンはまず準備運動という感じで、別段どうと言うこともない演奏でしたが、ブリテンは素晴らしかったです。イギリスのオーケストラとは思えないような分厚い響きで、あまり聞き慣れないこの音楽を面白く聴かせてくれました。
イギリスのオーケストラは、インターナショナルな性格が強く、いつもクールでニュートラルな性格が強いのが特徴です。それだけに、こんなに、分厚くて生々しい音が出るのは驚きでした。
しかし、素晴らしかったのはブラームスでした!
「ブラームスは地味で退屈」なんてどこの誰が言ったのでしょう。
細部の音を整えるよりは、音楽の流れを大切にして、音のドラマを余すところなく描ききる演奏でした。
何回かレコードで聴いて、それなりに知っている曲ですが、まるで初めて聴く曲のように、次はどうなるのだろうとドキドキさせられるような演奏でした。
そして、マーラーの時もそうだったのですが、波が何度も打ち寄せるように、大きなうねりとなって音楽の高揚を作り上げていき、その頂点でのすさまじいフォルティッシモは、とてもロンドン・フィルとは思えない響きでした。
病気でキャンセルになった三度目の来日の時は、代役のフランツ・ウェルザー・メストが振ったのですが、この時はイギリスのオーケストラらしく端正な響きを聴かせていましたから、ロンドン・フィルはテンシュテットの手にかかったときだけ変身するようです。
そして本当に不思議だと思ったのは、この演奏に接してから、今まで買い込んでいたブラームスのレコードを聴いてみれば、あれほど退屈で面白くないと感じていた録音でも、それなりに結構面白く聴けるのです。
おそらく、ブラームスの持っている音のドラマの面白さを、テンシュテットに教えてもらったからでしょう。
そこで、目に付くレコードを片っ端から買ってきて聴いてみるということをやってみました。
印象としては、フルトヴェングラーがベルリン・フィルといれたレコードが、テンシュテットの演奏と近いように感じました。コンサートマスターが、晩年日本とは大変に縁の深かったシモン・ゴールドベルグで、第2楽章では素晴らしいソロを聴かせてくれています。
後日、テンシュテットはイギリスでは、この世紀の巨匠フルトヴェングラーに比較されていたという話しを聴きました。
さらに、1番の交響曲だけでなく、それ以外のブラームスの作品もあれこれ聴いてみました。
2、3、4番のシンフォニー、ピアノやヴァイオリンのコンチェルト、ドイツレクイエムなどの声楽曲、バイオリン・ソナタなどの器楽曲と、不思議なほど面白く聴けるようになりました。
これは、「セロ弾きのゴーシュ」の時にも経験した事ですが、一つの出会いが、新しい世界を開いてくれた幸せな体験でした。
そんなことがあって、ブラームスはお気に入りの作曲家の一人になりました。
「ブラームスはお好き?」と聴かれれば、躊躇なく「YES!」と答えます。
実演とCDの落差の大きさに愕然!
ここで、話しが終わればほんとに目出度し、目出度しなのですが、その後考え込まされる事件(?)に出会ってしまったのです。
この演奏会のすぐ後に、テンシュテット指揮、ロンドン・フィルによるブラームスの交響曲1番のレコードが発売されたのです。
フルプライスの2800円だったのですが、喜び勇んで買い込みました。そして、胸躍る思いでこのレコードを聴いてみて愕然としました。
そこから聞こえてくる響きは、いつものロンドン・フィルのクールな音なのです。
実に端正に細部は仕上げられているのですが、肝心の音のドラマはどこにも見あたりません。
きっと、耳のいい、EMIのプロデューサーが、一つのミスも聞き逃さず、綺麗に編集してくれたようです。
「地獄への道は善意で踏み固められている」と言ったのは誰だったでしょう。
何度も、テイクをやり直させなくても、そして編集でズタズタにしてくれなくても、ミスが少々あっても、テンシュテットが紡ぎ出す音のドラマは、かわるものがないほど素晴らしいのです。
ただし、こんな事は、素人の私如きものが指摘しなくても、天下のEMIのプロデューサーなら百も承知のはずです。それでも、全世界を市場に商品を供給しなければならないメジャーレーベルではホンの些細な傷でも徹底的に消さなければいけないようなのです。
その「過剰クオリティ」の追求にメジャーレーベルの限界を見たような気がしました。
音楽の生命感をスポイルしてでも、評論家連中から指摘されるような欠陥をなくすことを優先せざるをえないメジャーの限界です
そして、これは現在という時代のつまらなさの反映でもあります。表現力の偉大さよりは、とにかくミスなく終えること、つまり、突出した才能よりは平均点の高い人物が評価される時代の反映です。
役人の世界なら、「大過なく終える」ことは最良の誉め言葉でしょうが、音楽の分野で、大過なく終わる演奏なんかに誰がお金を出すでしょうか!
と言うわけで、テンシュテットに関しては、スタジオ録音されたものは、マーラーなどを除いて残念な結果になっているものが少なくありません。
それ故に、彼がガンに冒されて演奏活動が極端に制限されたために、やむなくリリースされたライブ録音などだと、そう言ういらぬお節介が入っていないために、テンシュテットの美質がスポイルだれずに刻み込まれています。
そして、最近出回っているライブ録音の海賊盤などには本当にすごいものがまざっています。
<追記:2015年3月>
スタジオ録音された「新世界より」は、その直前にコンサートで取り上げられていました。後年、この直前のコンサートのライブ録音が「海賊盤」として流通したので、その違いを確認したくて聴いてみました。
予想通り、それはスタジオで録音された「新世界より」とは全く別の音楽になっていました。
ドヴォルザークという人は天性のメロディーメーカーであり、それ故に耳あたりの良い音楽をたくさん書いた人と思われがちです。しかし、彼の本質は、そのような耳あたりの良い美しさの背景に、満たされなかった望みへの悲しみのような通奏低音のように鳴り響いてることです。そして、その悲しみが時に地獄の淵をのぞき込むような怖さがあふれ出すときがあります。
スタジオ録音ではただの耳あたりの良い音楽にすぎなかったものが、ライブの録音では疑いもなく地獄の淵をのぞき込むような場面に何度も出会いました。
指揮者にとって70歳という年齢はあまりにも早すぎた死です。
まさにこれからというときだっただけに、このテンシュテットの死は惜しみても余りある痛恨事でした。(合掌)