男にとって母というのは微妙な存在です。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天にきこゆる
15歳で母の元を離れた茂吉にとって、母性が持つ聖性は維持され純化されていたのでしょう。そうでなければ、母の死に際してこんな絶唱はあり得ません。
しかし、大部分の男は自立に向けた通過儀礼とも言うべき思春期を母とともにすごさざるを得ません。そして、思春期に母が身近にいる大部分の男は、自らを守ってくれる愛しき聖母のまなざしの中に己を支配し続けようとする魔物の姿を見いだしてしまいます。
息子が己の腕の中にいる限りは聖母は限りなく優しいのですが、そこから逃れようとするとありとあらゆる手を使って引き止めにかかるのが母という存在です。
私の知る限り、ごく普通の男にとっては、母とは愛しくもあり厭わしくもある存在なのです。
ですから、どこかの時期と場面において、男は精神的に母を捨てなければいけないのですが、捨てたと思っても捨てきれない部分がいつまでも残るのが母という存在の厄介さです。
世間の良識からの批判を顧みずに言い切れば、それ故に母の死というものは、深い喪失感とともにある種の安堵感をもたらします。
そう思って、茂吉の歌をもう一度読み返してみると、作品全体を支配する静けさの中になんだか安らぎのようなものも感じなくはありません。なるほど、母の元を離れたのは15歳なのですから、年齢的には結構微妙だったのかもしれません。
パリでモーツァルトは母を病で失います。
その深い悲しみから彼は二つの短調の作品を書いたと言われてきました。イ短調のピアノソナタ(k.310)とホ短調のヴァイオリンソナタ(K.304)です。
しかし、最近の研究で、ホ短調のヴァイオリンソナタは母の死よりも前に書かれたことが分かってきました。そうなると、ホ短調のヴァイオリンソナタを母の死に結びつけて理解することには無理が生じます。
そして、イ短調のピアノソナタを母の死に結びつけることにも私は違和感を感じます。
なぜなら、イ短調の響きの中から聞こえてくるのは深い絶望感とやり場のないいらだちだからです。
そのいらだちと絶望感は明らかに恋を失った男の感情です。
母の死も恋人の裏切りも喪失感という点で共通しても、前者にあって後者にないのは安堵感です。この作品にはどこを探しても安らぎがありません。
第2楽章の冒頭の美しいメロディも中間部の深い絶望に塗り込められると、その闇を一層際だたせるための舞台仕立てでしかなかったことに気づかされます。
その失った恋とは言うまでもなく、パリに着く前にマンハイムで出会ったアロイージアとの別離です。
ただし、ここを一つのきっかけとしてモーツァルトは大きく変化していきます。
パリでの就職活動に失敗して失意の中でザルツブルグに帰郷したモーツァルトは、やがて大司教のコロレドと大喧嘩をしてウィーンに旅立ちます。貴族の召使いとして生きていくしかなかったこの時代の音楽家にとって、その喧嘩別れは命がけの決断だったはずです。そして、そのような決断ができる男になれたスタート地点が、この深い絶望感とやり場のないいらだちの中にこそあったような気がします。
自我の目覚めない幼い男を一人前にするのは母の死ではなくて、女の裏切りです。
男は女に振られ裏切られてこそ一人前になるのです。