論ずると言うこと

随分と長い間、あれこれの録音を聞いて、あれこれと好き勝手なことを書いてきました。
「批評」と呼べるような立派なレベルには到底達しない全くの無駄口なのですが、それでも、こういう事を長い間書いていると気づかされることがたくさんあります。
そんな気づきの一つが、たとえ無駄口のレベルであっても、それをどのようなスタンスで書くのかによって、文章を綴る難しさが随分と変わると言うことです。

kikyou

意外かもしれませんが、一番気楽で簡単なスタンスは「他にもこういう優れた演奏がある」とか、「世に知られていないこの録音こそがベストだ」というスタンスで書くことです。特に、あまり知られていないような録音を探し出してきて、その素晴らしさを紹介するというのは意外なほど簡単です。
最近は影を潜めましたが、こういうスタンスで埋め尽くされた書籍が世に出回ったことがありましたが、あれは随分と簡単に原稿が仕上がったと思います。

それと比べれば、みんなが褒めている録音・演奏を「やはり素晴らしい」と言って褒めるのは意外と難しいのです。
「えーっ?みんなが褒めているものを同じように褒めるなんて誰にでも出来るでしょう」と言われそうですが、実はそれほど簡単ではありません。

何故ならば、誰もが褒めているがゆえに、その褒め方によってその人の底が見えてしまうからです。
例えば、ネット上に溢れている批評の大部分は、どこかの誰かが書いた文章の受け売りの域を出ていないのが大部分です。酷いのはいわゆる「コピペ」ですが、「コピペ」とまではいかなくても書き手の顔が見えてこない文章が大部分です。
そこに価値あるオリジナリティを出せとまでは言いませんが、せめてその録音・演奏を聴いて感動した己の真情の一端でも書け、とは言いたくなります。

しかし、たとえ一端であっても真情を吐露するというのは、その前提としてその録音・演奏を聴いて「感動したという事実」が必要です。つまりは、聞いて感動もしていない自分がいて、それでも世間は褒めているから何か書こうとすると、その文章は他人の受け売りのレベルをこえることは出来ないのです。
ですから、みんなが褒めている録音・演奏を褒めるのは意外と怖いことなのです。

そして、最後に、もっとも難しいスタンスはみんなが褒めている録音・演奏に駄目出しをすることです。
つまりは、誰もが褒めている録音・演奏を聴いて感動していない自分がいれば、その「真情」を素直に吐露すればいいのですが、これが実に難しいのです。

例えば、初来日のホロヴィッツの演奏を聴いて「さすがはホロヴィッツ」とみんなが褒めそやしている中で「ひびの入った骨董品」と批判したのは吉田秀和でした。最近は、彼のことを「音楽のことなど何も分からないクズの評論家」みたいな言い方をする人がいるのですが、少なくとこの一事だけを持って私は彼を信用できます。
私もあの来日公演はテレビで最初から最後まで見ていました。
そして、演奏会が終わった後にスタジオのメンバーが感動さめやらぬ様子で褒めあっている姿に違和感をおぼえたものでした。
もしかしたら記憶間違いかもしれませんが、そんなスタジオでのやりとりの後に吉田秀和がインタビューを受けて、「できればもっと早い時期に聞きたかった」みたいな趣旨のことをしゃべり、「あれはひびの入った骨董品だね」と切って捨てたのです。

失うものが何もない気楽な聞き手ならば何とでも言えます。
しかし、この国を代表する評論家がNHKという公共の電波でホロヴィッツを「ひびの入った骨董品」と評することには大きな犠牲が伴います。
しかし、その犠牲を厭わずに、己の批評眼と真情に対して正直だった吉田秀和は偉かったのです。

まず何よりも、みんなが褒めているものを批判するというのは勇気が必要です。
しかし、そこで勇気を出して、「王様は裸だ!」と叫べばどうなるでしょう。
残念なことに、その99%以上において王様は裸ではないのです。

残念ながら。

そして、裸ではないものを裸だと叫べば、それはただの阿呆なのです。

良識ある多くの人はこの厳然たる事実をよく知っているので、裸だと思ってもその事をおくびにも出さないのです。
それだけに、勇気を持って「王様は裸だ!」と叫ぶ人の勇気には拍手を送りたいと思います。
それが結果としてどれほど阿呆に見えても、己の偽らざる心情の吐露としての評価ならばその勇気には拍手を送るべきです。

ただし、始めから終わりまで阿呆ばかりでは、それはただの阿呆ではあるのですが・・・。


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