「作品」なのか「演奏」なのか(1)

私たちがコンサートに出かけて、もしくはレコード(CD)を買ってきて聞こうとしているのは「作品」なのか「演奏」なのかと言う問題は、突っ込んで考えてみる価値があるようです。

「あなたのコンサートからお帰りになるお客様に『今日はいいベートーベンだったね。』っていわれるような演奏家になりなさい」

丸山真男
丸山真男 政治学者、思想史家

丸山真男が天満敦子に語ったこの言葉は、「作品」を演奏し、「作品」を聞くことが本筋なんだと言っています。
ロジンスキーの「新世界より」(1954年盤)をアップしたときにいただいたコメントも、言い方は違え、それと全く同じ事を語っておられました。少し長くなりますが、全文引用させていただきます。

2014-11-01:HIRO

私は、チェリビダッケの良い聴衆ではないので、私の知っている彼の「新世界から」の演奏は、YouTubeで見ることのできる、ミュンヘン・フィルとのライブだけなのですが、その第2楽章で彼は大失敗をしています。
この楽章の鳥が鳴き、太陽が昇るシーンは、鳥の部分の音符にスタッカートやスラーなどのアーティキュレーションが付いていて、そのままインテンポで演奏すれば、ちゃんと鳥に聞こえるように、ドボルザークは書いています。しかし、その音型を、チェリビダッケはクライマックスがやってくる前の、アッチェレラアンドのための歯車的音型としか思わず、「いつもの癖?」でそこでテンポを落としてしまいました。そのため、鳥が全く鳥らしく聞こえなくなってしまいました。

これは、この曲の内容をチェリビダッケが知らなかったことの証で、彼は、私のいう「自分なりの楽譜を読む法則」通りに、いつもの様にしてしまったのでしょう。
おそらく、その後に出てくる、メロディーが途切れる場面や、弦が4ー2ーソロになる場面についても、どうしてそうなるのか分からなかったでしょうから、「ドボちゃん、洒落たことをしてるな」ぐらいにしか思わなかったのではないでしょうか。

これは独善的といわれる指揮者によくある特徴で、トスカニーニなどにも見られ、彼も同じ失敗をしています。
トスカニーニも同じ場所で、今度は、逆に早すぎて、まるで鳥には聞こえません。
彼も、この曲の内容を知らなかったのでしょう。
勿論、楽譜を自分勝手な解釈で演奏しても、上手く行った曲はたくさんあるのでしょう。(そんなこと、ほとんどの聴衆は分からないのですから…)
あるいは、トスカニーニのイタリアものの様に、当たり前に知っているものもあるでしょう。
しかし、いくら「楽譜に忠実」などと言っても、内容を知らないのであれば、ただの「棒読み」です。
それを、同じく内容を知らない評論家、聴衆が「オケが歌ってる」とか、「テンポが良い」とか、「アンサンブルが揃ってる」とか音響面だけで感心して、音楽を鑑賞したつもりでいます。

無能な指揮者は何もしないので、かえってバレないのですが、小賢しい指揮者が余計なことをして、馬脚を露してしまいます。
こういう失態は、この曲だけのことでしょうか。
いえいえ、こういう「大家」になってしまいますと、何でもかでも「解釈」という「自分の法則」で通してしまいます。それでは、いくら「哲学」を語っても、それは「自己流」という意味でしかありません。
あのロジンスキーでさえも、「裸の王様」状態のトスカニーニには忠告できなかったのでしょう。

クラシックの音楽の世界というのが、「作品」を演奏し、「作品」を聞くことが本筋なんだとすれば100%正しい指摘だと思います。
しかし、ここで「卓袱台返し」のように、「いや、クラシック音楽の世界といえども演奏を聞かせ、演奏を聞くことに楽しみを見いだして何が悪い」と開き直ってしまえば、事情は180度変わってしまいます。

そして、さらに考えを進めてみれば、「作品」を演奏し、「作品」を聞くことに価値を見いだすスタンスは、一般的に音楽を聴くスタンスとしてはかなり特異な立ち位置であることに気づきます。
例えば、ジャズの世界で、「今日のマイルスの演奏は作品の本質をついた素晴らしい演奏だったね」とはあまり言わないのではないでしょうか。

これがポピュラー音楽だったら絶対にあり得ません。
例えば、「今日の中島みゆきの『糸』は作品の本質をついた素晴らしい歌唱だった」という人がいればかなり気持ちが悪いです。
「今日のみゆき姐御は良かったね」というのが普通です。

また、ヘンデルやバッハの時代の作品に対して「原典尊重」することにどれほどの意味があるのかと言うことも考えてみる必要があります。
彼らの音楽は「後世の評価」などというものは一切勘定に入れていません。
彼らの音楽は、言葉は悪いですが基本的に「機会音楽」です。様々な機会に音楽が求められ、その機会に相応しい音楽を次々と供給し、そうして供給された音楽は次々に消費されていったのです。

そんな音楽のスコアというものはその時々の覚え書き程度の意味しか持っていないことが多くて、音楽を芸術ととらえ後世の評価を視野に入れて作曲をするようになったのは19世紀期以降です。
ですから、それ以前の作品を19世紀ロマン派以降の作品と同じ目線で評価するのは基本的に間違っています。

ところが、クラシック音楽の世界では「今日はいいベートーベンだったね」こそが正解で、「今日の天満敦子は良かったね」は表現の仕方、そして受容の仕方としては一段落ちると言うのです。そして、そう言う物言いは、丸山真男に限った特異なスタンスではなくて、それがクラシック音楽の世界のスタンダードとなっているのです。
もっと、分かりやすく言えば、「原典尊重」「作曲家の意図に忠実」という言葉を使った時点で、演奏する側も聞き手の側も、丸山のスタンスに同意していることになるのです。

しかし、そんな立場には汲みしない演奏家もいるのです。いや、「いたのです」と、過去形で表現した方が正確かもしれません。
彼らは、端から「精神性」などというものには背を向けていますし(いましたし)、さらに言えば、クラシック音楽といえどもポピュラー音楽と同じようなスタンスで演奏しても十分に価値があることを確信しているのです(していたのです)。

Leopold Stokowski
Leopold Stokowski

例えば、ストコフスキーの音楽は徹頭徹尾「演奏」を聞かせる演奏の典型でした。
響きは基本的に美しく磨かれ、意外なほどに透明感の高い音楽に仕上がっています。そして、ここぞという場面ではスコアの指示よりは演奏効果の方を常に優先させてゴージャスに盛りあげます。
王宮の花火」では最後の場面で華々しく花火が炸裂します。
オーディオ装置の具合が悪くなってノイズがまざったのかと思って一瞬焦りましたが、それもまた私自身が「作品」を聞かせることに重きをおいた行儀の良い音楽を聴き続けてきたせいでしょう。

しかしながら、クラシック音楽といえどもポピュラー音楽と同じようなスタンスで演奏しても十分に価値があるみたいなことを書いてしまうと、まるで作曲家の意志に忠実な演奏を否定しているような誤解を招きかねません。
これもまた、引用が長くなるので申し訳ないのですが、おつきあいください。

テレビ朝日で「関ジャニの仕分け∞」という番組をやっています。この番組の中でプロの歌手に子どもや芸人さんがカラオケで挑戦するというコーナーがあります。面白いことに、自分の持ち歌を歌ったプロの歌手の方がよく負けます。

勝ち負けはカラオケの採点機能が判断します。採点基準の原則は音符を外すか外さないかです。スコアに忠実に歌えば歌うほど得点は高くなります。しかし、一音も外さずに歌ったとしても100点満点にはなりません。それに加えて、歌を美味しく聴かせるような要素がないと加点されないので得点は伸び悩みます。
つまりは、スコアに忠実に歌うことは大前提ですが、作品が持っている美味しい部分を上手く表現しきらないと高得点にならないのです。

そして、驚かされたのが、この勝負の中で歌われる歌がどれもこれも「あれっ?この歌ってこんなに素敵な音楽だったかな?」と思ってしまうほどに素晴らしいのです。そして、その素晴らしさは、時には「おおーっ!!」と呻ってしまうほどの凄さだったりするんです。観客席にはその歌を聴いて泣いてしまっている人もいたりするんですが、それがやらせだなどと微塵も思わせないほどに凄いのです。
それはもう、日頃聞き慣れた歌とは全く別物になってしまっているのです。

歌手というのは、自分の持ち歌ならばコンサートなどで結構崩して歌っていることが多いです。理由は簡単で、その方が楽だからです。つまり、自分が歌いやすいように適当に音楽を崩して歌い、その崩しを自分のテクニックだと思っている場合が多いのです。
ところが、この勝負でそんな歌い方をすると驚くほど得点が出ません。
最初の頃は、それでも自分のスタイルを崩さずに思い入れたっぷりに大熱唱する歌手もいたのですが、その独りよがりの盛り上がりに反して得点の方は驚くほどの低さだったりしました。

そんな悲惨な光景を何度も見せつけられると、プロの歌手の方も本気でスコアを見直し、自分の癖を全てリセットして本番に望むようになります。当然のことながら、挑戦者の方は最初からスコアだけを頼りに高得点を狙ってきますから「崩し」なんかは入る余地もありません。この二人が本番ではガチンコでぶつかるのですから、これはもう聞き物です。

おそらく歌っている方は大変だと思います。抑えるべきポイントが山ほどあって、気持ちよく歌い上げているような場面などは皆無なんだろうと思います。いわば、不自由の極みの中で音楽を整然と構築し、さらにはその内容が聞き手にキチンと伝わるようにあらゆるテクニックを計算通りに駆使し続けなければならいなのです。

ところが、そう言う不自由の極みの中で歌い上げられた音楽の何という素晴らしさ!!
手垢にまみれた音楽が、本当にまっさらになってキラキラと魅力を振りまいているのです。
そして、思うのです。
この歌ってこんなに素敵な音楽だったんだ!!

この理屈を真っ先に発見したのがクラシック音楽の演奏家でした。
彼らが、作曲家の意志に忠実たらんとし、そしてスコアを徹底的に研究し尽くした上で演奏に取り組んだのは学問的な興味から為されたことではなくて、そうすることによって、今まで誰も聞いたことがないような素晴らしい「演奏」が実現できると考えたからなのです。
言葉をかえれば、「作品」の姿を徹底的に追求し、その追求した姿を忠実に再現することで、いかなる「名人芸」にも負けない「演奏」が実現できると考えたのです。

その様に考えると、クラシック音楽の演奏史において大きな分岐点となった出来事が自ずと浮かび上がってきます。
シュナーベルによって1932年から1935年にかけて行われたベートーベンのピアノソナタ全曲録音です。

Artur Schnabel
Artur Schnabel

クラシック音楽といえども、コンサートという形式が社会的に成り立つための大前提は「名人芸」でした。その嚆矢となったのがリストでありパガニーニだったわけです。そして、そう言う偉大な存在に続いた数多くのピアニストやヴァイオリニストが飯を食っていくため求められたのは「作品」を追求することではなくて、華やかな「演奏」を展開することでした。その立ち位置は現在のポピュラー音楽のコンサートと全く同じだったのです。

そんな常識に真っ向から挑んだのがシュナーベルだったのです。
彼が「苦しみのために死んでしまうのではないか」と思いながらも全集を完成させたのは、「作品」を追求することで、いかなる名人芸ですらひれ伏してしまうほどの「演奏」が実現できると確信したからです。そして、このシュナーベルの方法論の正しさは次第に多くの演奏家や聴き手に認知され、それ以後のクラシック音楽演奏史の本流となっていくのです。

ですから、最初に掲げた「私たちがコンサートに出かけてて聞こうとしているのは「作品」なのか「演奏」なのか」と言う問題は本来は意味を持たないはずなのです。
丸山真男の「今日はいいベートーベンだったといわれるような演奏家になれ」という言葉も好意的に受け取れば、「作品」と「演奏」が二択の関係ではなくて分かちがたく結びついていることを示唆していたのかもしれないのです。

しかし、理屈としてはおそらく100%正しいその主張も、現実の中においてみると事はそれほど簡単ではなくて、少なくとも二つの問題は避けて通れないことに気づきます。
そのうちの一つは、聞き手の「辛抱」に関わる問題であり、二つめはその様な「辛抱」を強いた上で実現されている現在のクラシック音楽の演奏の「クオリティ」に関わる問題です。(続く)

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