まず始めに「辛抱」に関わる問題から考えてみます。
よく知られているように、シュナーベルというピアニストは亡命先となったアメリカの音楽界とはあまり上手くマッチングしませんでした。そう言う相性の悪さは、彼のアメリカデビューの時からはっきりしていました。
興行主から「あなたは路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませるようなことができないのか」と言われても、「24ある前奏曲の中から適当に8つだけ選んで演奏するなど不可能です」と応じるような男だったのです。
その結果として、興業は失敗に終わり、興行主からも「あなたには状況を理解する能力に欠けている。今後二度と協力することはできない」と言われてしまいます。
聞き手は辛抱と緊張感を持って24の前奏曲を聴き続ければ、そこから適当に8つだけ選んで華やかな名人芸を披露するようなコンサートからは得ることのできない「深い音楽的感動」が得られるはずなのです。ですから、「24ある前奏曲の中から適当に8つだけ選んで演奏するなど不可能です」と言うシュナーベルの方法論は理屈としては100%正しいのです。
しかし、そう言う辛抱と緊張感を持続できる聴衆でコンサート会場を埋め尽くすことができないという「現実」の前では、そう言う「正しい理屈」も無力となるのです。
ストコフスキーという指揮者は、そう言うシュナーベル的な方法論とはもっとも遠くに位置した人でした。
彼の音楽家人生は「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事に費やされたのです。そして、そう言う立ち位置で今も活動を続けている指揮者もいることはいるのでしょうが、そう言う音楽家がストコフスキーのように世界的なメジャーオーケストラを率いて活躍することは限りなくあり得ない時代になってしまいました。
しかし、ストコフスキーや、そしてカラヤンの録音を聞くとき、「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事はそんなにも価値の低いことなのだろうという疑問を払いのけることができないのです。
彼らは透明度の高い美しい響きで、横への流れを重視した音楽作りに徹しています。聞く人が心穏やかに聞けるように、意外なほどに控えめに音楽を形作りながら、ここぞという場面では華やかに盛りあげます。
ワーグナー:管弦楽曲集 「ワルキューレ」他 レオポルド・ストコフスキー指揮 シンフォニー・オブ・ジ・エア 1960年12月28日 & 1961年4月20,21日
ただし、これを聴いて「こんなのワーグナーじゃない!」と言う人がいれば、それは100%正しいのですが、ストコフスキーがそんなことを追求していないこともまた事実なのです。
クラシック音楽のコンサートほど「辛抱」を強いられる場はありません。
その辛抱にはいろいろあるのですが、その最大の「辛抱」は、演奏がどれほど面白くなくても最後までつきあうことを要求されることです。
もちろん、クラシック音楽のコンサートは「強制収容所」ではありませんから、つまらなければ途中で席を立っても罰せられることはありません。
しかし、私の経験した範囲の中では、演奏に対する抗議として途中で退席した人はほとんど見たことがありません。オペラの舞台を除けば、演奏の途中でブーイングや野次が浴びせかけられる場面も見たことがありません。演奏が終わった後に拍手もしないでそそくさと席を立つくらいが精一杯の抵抗です。
この背景にはいろいろな事情が働いているでしょう。
聞き手にすれば、安からぬチケットを購入し、さらには時間の工面もして出かけてきているのですから、そのコンサートが「感動」的なものであってほしいという願望があります。そして、その「願望」をかなえるために、お利口にしてじっと辛抱強く「作品」と向き合うことが必要だというマナーはわきまえていますから、そこでほとんどの人にある程度の「自己規制」が働きます。そして、そう言う「自己規制」を働かしている人々が聴衆の大部分として会場を埋めることで、さらなる強い「同調圧力」がかかります。
そして、そう言う「同調圧力」を背景にして、「ちょっとくらい退屈でも、最後まで辛抱して演奏につきあってくれればそれなりの演奏になるんだよ」という演奏する側の開き直りが生まれます。そして、その様な開き直りが「自己規制」と「同調圧力」によって許容される事になります。
結果として、その他のジャンルのコンサートと比べれば、異常に重苦しい雰囲気がクラシック音楽のコンサートを覆います。そして、その雰囲気こそがクラシック音楽を他のジャンルと分かつステイタスだと考えている節もあります。
美術作品ならば前を素通りすることができます。
文学作品ならば本を閉じることができます。
映画は少し似通った部分はありますが、途中で退席することははるかに容易ですし、何よりも、観客に辛抱を強いるような映画は商業的に成立することが難しいです。
そういう事情は演劇の分野においてもほぼ同様です。
そして、観客に「辛抱」を強いることのないようにエンターテイメント性を確保することは、映画や演劇の価値を下げることにはつながりません。事実、観客を飽きさせない工夫をあちこちに施しながら、それでも芸術的に成功している作品や上演は数多く存在します。
ところが、クラシック音楽の世界では、そう言うエンターテイメント性を明らかにした時点で一段低く見てしまう風潮があるのです。
ですから、私が本心からの褒め言葉としてストコフスキーに対して「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事に音楽家人生を費やしたと書いても、それは彼を貶めることにしかならないと怒る人もいるのです。
確かに、作品の姿を徹底的に追求することで感動的な演奏を実現することは現在の王道です。
しかし、映画や演劇の世界ではエンターテイメントの果てに人間の真実を描き出すような営みは数多く存在します。
クラシック音楽だって、「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事の果てで作品の姿を追求することはできるのではないでしょうか。
カラヤンという人はベルリンフィルを手中に入れた1960年代の中頃から、「作品の姿を徹底的に追求することで感動的な演奏を実現する」という王道を捨てて、「エンターテイメント性の果てで作品を追求する」という新しい道に踏み出したのではないか、と考えるようになってきました。
そして、こういう言い方をすると、またまたストコフスキー信奉者を怒らせることになるかもしれないのですが、カラヤンはこの道をより高いレベルで実現して見せたのです。
思い切った言い方をすれば、カラヤンは歌舞伎の千両役者でした。そして、彼が存命中のクラシック音楽は歌舞伎の世界だったのですが、彼が亡くなったとたんにクラシック音楽の世界は「能の世界」に戻ってしまったような気がするのです。
もちろん、能という芸能を否定する気は全くありませんが、その素晴らしさを味わうためにはかなりの辛抱が必要です。
そして、観客に辛抱を求めるジャンルはどうしても限られた人だけの世界になります。
カラヤンが亡くなり、その後を追うようにバーンスタインも亡くなって、クラシック音楽の世界は一気に収縮しました。
そう言う文脈でカラヤンをとらえてみれば、改めて彼の凄みが分かってきます。ですから、カラヤンの演奏なんて「ひたすらゴージャスな響きだけを求めた精神性の乏しい演奏」だとして、その入り口でシャットアウトしてしまうのは本当に勿体ない話なのです。
もちろん、こんな書き方をしたからと言って、観客に辛抱は不要だと言っているわけではありません。
しかし、辛抱だけを求めていては、やがては能のようにごく限られた人だけが受容できる世界になってしまうのではないかという危惧を感じるのです。もちろん、訳の分からない連中が乱入してくるよりは分かる奴だけの「能」の世界になって何が悪いという人もいるでしょうが、これもまた事はそれほど簡単ではないのです。
それは、真摯に「作品」に向き合った現在の演奏の大部分が面白くないという悲しい「事実」に突き当たるからです。
これが二つめの問題です。(続く)