「作品」なのか「演奏」なのか(3)

「真摯に作品に向き合った現在の演奏の大部分が面白くないという悲しい事実」という物言いはかなり剣呑な雰囲気を生み出しかねない言葉です。ですから、これには少しばかり補足が必要となります。

この「面白くない」というのは、演奏を聴いている最中に腹が立ってきて席を立ちたくなると言うレベルの話ではないのです。
それどころか、聞いている最中は作品と真摯に向き合った姿勢に感心もし、その解釈を現実のものにするための献身的な努力にも敬意を感じるのです。つまりは、一見すれば最も高いレベルで真摯に作品と向き合った演奏なのです。

しかし、演奏会から帰ってきて数日もすればその演奏会で聴いた音楽の印象が何故か希薄になっていくのです。
そして、怖いことに、一ヶ月もすれば聴いた音楽の印象は完全に蒸発し、聞いた作品名だけがデータとして記憶に残るだけなのです。

私はこれを「音楽の蒸留水化」と呼びたいと思います。

例えば、デイビッド・ジンマンが率いて来日したチューリッヒ・トーンハレのコンサートは、私の中では典型的な蒸留水化した演奏でした。

David Zinman
David Zinman

かつて、カイルベルトとバンベルク響にふれたときに、こんな風に書いたことがありました。

聞いていて一番印象に残るのは、何とも言えずまろやかで伸びやかなホルンの響きでしょう。こういう響きはなかなか聞けないですね。
オケ全体の響きも「自然素材の風合い」を感じさせてくれます。
こういう響きを聞かされると、今と昔ではオケの鳴らし方が根本的に変わったことを教えられます。

カイルベルトのやり方は、おそらくは主たる旋律のラインをくっきりと描き出した上で、その他の声部のバランスを取るというやり方をしているのでしょう。
基本はメロディラインが優先です。
一番印象に残ったホルンの伸びやかな響きは、そう言うやり方の「功徳」でしょう。

それに対して、昨今のオケと指揮者は各声部のバランスを完璧に取った上で均等に鳴らすという神業のようなことを平然とやってのけます。結果として、オケの響きは「自然素材の風合い」ではなくて、「クリスタルな透明感」が支配的となります。
そして、そう言う響きはこの上もなく美しく、蠱惑的です。

チューリッヒ・トーンハレの響きが、ここで書いた、昨今のオケの代表ともいうべき「この上もなく美しく、蠱惑的」なものであったことは事実です。
何というか、いろいろな楽器の響きが実に精緻に何層にも重ねられていて、それらがコンサートホールいっぱいに均等に広がっていくのですから、それはもうケチをつけるところなどは何もないはずなのです。しかし、文句をつけるところは何もないはずなのに、「あー、これはまさに蒸留水みたいなブラームスやな!」と醒めていってる自分がいたことも事実なのです。

そして、こんなブラームスってどこかで聞いたことがあるなぁ、などと過去インデックスの検索が始まり、思いついたのが小沢と斉藤記念オケによるブラームスでした。
ただし、小沢の演奏に関しては録音でのみ聞いたのですから、実際のコンサートホールではまた違ったのかもしれません。
しかし、ブラームスに限らず、年を取ってからの小沢の演奏は、どれもこれもが蒸留水化していったことは否定できないような気がします。

残念ながら、ソリストにクレーメルがついてきていたのでチケット代は安からぬものだったのですが、このコンサートで最後に残ったのはブラームスの1番とベートーベンのヴァイオリンコンチェルトを聴いたというデータだけでした。
それに対して私の中には、同じブラームスでも強烈な印象を残してくれたコンサートが二つあります。

山田一雄と大フィルによるブラームスの2番と、テンシュテット&ロンドンフィルによるブラームスの1番です。
少なくとも、ジンマン&チューリッヒ・トーンハレの演奏を思い出してあのような文章を綴ることは不可能だったでしょう。

スコア片手に演奏をチェックすれば、間違いなく「ジンマン&チューリッヒ・トーンハレ」の演奏が最も作品に忠実になはずです。オケのアンサンブルという点でいえば、ゴミ満載の山田一雄&大フィルとでは雲泥の差です。テンシュテット&ロンドンフィルにしてもジンマンのような精緻な響きへの拘泥はありませんでした。
しかし、聞き手にとって見れば、幸せな思い出として記憶に残っているのはジンマンではなくて山田一雄であり、テンシュテットなのです。

そうであるならば、考えなければいけないのは、山田やテンシュテットにはあって、ジンマンや(おそらく)オサワなどにはないものは何なのか?という命題です。

最初に結論を言ってしまえば、私はそれは「花」だと考えています。

Blossoms in full glory
Blossoms in full glory

話は少し脇道にそれますが、東日本大震災が起こったときに、私はケンペ&ベルリン・フィルによるドイツ・レクイエム(54年盤)をサイトにアップしました。
そうすると被災地の方から
「昨日電気が復旧してすぐに、このサイトをチェックしました。そして、ケンペのドイツ・レクイエムがあがっていて感激しました。これこそが、私が聴きたかった音楽です。ケンペの人間味ある素朴な演奏はどれも大好きです。本当に心から感動します。」
というコメントをいただきました。

もしも、その時にカラヤンのドイツ・レクイエム(64年盤)がパブリック・ドメインとなっていても、私はその録音をサイトには上げなかったでしょう。カラヤンの演奏はそう言うときに聴く演奏としては相応しくないように思うからです。
カラヤンの演奏を振り返れば、60年代の中頃には明らかにゴージャスな響きを追い求める姿が立ち現れていて、64年に録音されたドイツ・レクイエムにもその様な指向がはっきりと刻み込まれていたからです。

しかし、その事を持ってカラヤンの演奏と録音の価値を貶めてはいけません。
何故ならば、人は鎮魂のためだけに音楽を聴くのではないという当たり前のことに思いを致せば、その理由は簡単に了解できるはずです。

芸術には、咲き誇る大輪の花が絶対に必要です。そして、カラヤンには間違いなくその「花」がありました。
その「花」の値打ちを素直に、そして真っ当に評価しようとする人が少ないことこそが、今のクラシック音楽をつまらなくしているのです。

そして、その「花」は分かる奴だけが分かればいいと言う狭い世界に閉じこもってしまえば絶対に育たないものなのです。

「花」は人に見られることでのみ育ちます。

それは女優をみれば、これもまた簡単に了解できるはずです。
どれほどの美貌を称賛された女優も、人の目に触れる前はそれほどのものではないのが一般的です。もちろん、「美しい」とは思われていたのでしょうが、見る人を驚嘆させるほどの「美」と「花」を手に入れるためには「素材」だけでは不十分であって、さらに多くの人の目にさらされる必要があるのです。

確かに作品に忠実であることは大切なことです。しかし、そうすることによって「最後まで辛抱して付き合ってくれればこの作品の素晴らしさが理解していただけるはずです」というスタンスを取ることは、結果として「辛抱」出来ない人をその世界から遠ざけることに繋がります。そして、そうやって遠ざかっていった人たちを「辛抱」できる人たちが見下して、「分かる奴だけが分かればいいんだ」と開き直った瞬間に、その世界からは「花」が失われていくのです。
そして、「花」を失った途端にその世界はますます限られた人だけの閉鎖的な世界となり、その芸術はますます蒸留水のように味気なくも純化した世界に変貌していくのです。

山田やテンシュテットにはあって、ジンマンや(おそらく)オサワなどにはないものは何なのか?
それは疑いもなくこの「花」です。
そして、若い頃のオザワにあって、老年のオザワにないのも「花」なのです。

確かに、山田の花は咲き誇る大輪の花ではなかったかもしれませんが、それでも見る人の目をひかずにはおかない異形の「花」でした。
テンシュテットもまた大輪の花となる前に散ってはしまいましたが、その花の濃厚な色合いは見る人の記憶に何時までも残るものでした。

「花」の値打ちを素直に、そして真っ当に評価する人が少ないことこそが、今のクラシック音楽をつまらなくしているのです。

「あなたのコンサートからお帰りになるお客様に『今日はいいベートーベンだったね。』っていわれるような演奏家になりなさい」
こんな丸山の言葉は乗り越えられなければならないのです。(終わり)


返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です