マルケヴィッチのベートーベンと言えば基本的には以下のラムルー管との録音がメインとなります。第3番「英雄」はシンフォニー・オブ・ジ・エアとの録音(MONO)が残っていて、それはそれで素晴らしい演奏なのですが、彼が己のベートーベンを問うという意気込みで取り組んだのラムルー管との録音であったことは間違いありません。
- 交響曲 第1番 ハ長調 作品21 1960年10月録音
- 交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」 1959年10月録音
- 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68 「田園」 1957年10月~11月録音(MONO)
- 交響曲 第8番 ヘ長調 作品93 1959年10月録音
- 交響曲 第9番 ニ短調 作品125「合唱」 1961年1月録音
当然の事ながらマルケヴィッチにしてみれば全集として完成させる意気込みだったと思いますが、そのあまりにも厳しい訓練に音を上げたラムルー管が反旗を翻して録音は頓挫してしまいました。
聞いてみればすぐに分かることですが、あの緩いことで有名だったラムルー管が別人のように引き締まっています。
それでいながら、例えば8番の第3楽章のトリオでのフレンチホルンの響きなどは、まさにフランスのオケならではの美しさにが溢れていのですから、ここまで鍛え上げたマルケヴィッチの手腕はたいしたものです。
そう言えば、フランスのオケによるベートーベンのシンフォニーというのは意外と録音が少ないです。
全集としてまとまっているものとなるとシューリヒト&パリ音楽院管弦楽団による録音くらいしか思い浮かびません。そして、あの録音もまたドイツのオケの重厚な響きによるベートーベンではなく、まるで「ステンドグラスのようなベートーヴェン」と評されたものでした。(録音は悪いですが・・・)
それだけに、この録音が頓挫してしまったことは、返す返すも残念なことでした。
さらに、この録音を紹介するならば絶対に触れておかなければいけないのは、いわゆる「マルケヴィッチ版」と呼ばれる楽譜に関わる話です。この手の話は詳しくないので本当は避けたいのですが(^^;、この録音を紹介する上では避けて通れない話題なので簡潔にまとめておきます。
今さら確認するまでありませんが、ベートーベンの楽譜と言えば、長きにわたって19世紀半ばに編纂された旧全集版(ブライトコプフ版)が使われていました。しかし、この旧全集版にはいろいろな問題が含まれていることは周知の事実であり、それ故に多くの指揮者は自分なりに手を加えた私家版をもっているのが普通でした。
そして、マルケヴィッチもまた、そのような旧全集に含まれる様々な問題点の見直しを行った「マルケヴィッチ版」と呼ばれる楽譜を使っていたのです。しかしながら、この「マルケヴィッチ版」は、その他の指揮者が行っていたような演奏上の習慣として劇場的に継承されてきた手直しという領域をはるかに超えるもので、最終的には全3巻からなる「マルケヴィッチ版」がペータース社から出版されるに至るほどのものだったのです。
ちなみに、旧全集版に対する批判的研究をまとめる形で数多くの校訂版が出版されるようになるのは1970年代に入ってからで、その嚆矢となったのが、ペータース版と呼ばれるものでした。このペータース版は当時の東ドイツがベートーベンの「新全集」を目指す事業としてスタートさせたものでした。
そして、そのペータース社は自社の名前が付いた校訂版を出版しながら、同じような時期にマルケヴィッチによる校訂版もあわせて出版したのです。
この事実は、マルケヴィッチの仕事が、演奏上の習慣として引き継がれてきたスコアの改変などとは全くレベルの違う本格的な研究に基づくものであることを示しています。
ただし、90年代にはいるとベーレンライター版が出版されます。(^^v
この「ベーレンライター版」の影響力はよく知られてるように絶大なもので、あっという間にベートーベンと言えばベーレンライター版という流れが定着してしまいました。
そうなると、このマルケヴィッチ版に注目するような指揮者はほとんどいなくなってしまいました。
結果としてマルケヴィッチ版を使った録音というのはきわめてレアなものとなり、これからもこの版を使った演奏や録音は滅多に現れそうにもないのです。
それだけに、残りの4曲(2~4番と7番)もラムルー管との録音が残ってほしかったと、(そして、マルケヴィッチ自身もそれを強く望んでいたと思うだけに)切に思わずにはおれないのですが、それもまた死んだ子の年を数えるような仕儀です。
それでは、このマルケヴィッチ版の特徴が何処にあるのでしょうか?
残念ながら、と言うべきか、当然と言うべきか(^^;、そう言うことを専門的に紹介できる資料も能力も持ち合わせていません。
ただ、このラムルー管との録音を聞いた上での感想として述べさせてもらえれば、明晰さへの強い指向です。
ただし、この指向は、マルケヴィッチという指揮者の本能でもありますから、それがマルケヴィッチ版のスコアに依存する問題なのか、指揮者マルケヴィッチの手柄なのかは区別はつきません。
しかし、このラムルー管との録音は、その様な私家版を生み出すほどの執念が結実したものであったことは疑いがありませんし、逆に言えば、そこまでの執念を込めたからこそ、ラムルー管も音を上げたと言えるのでしょう。
この第1番の録音は先に紹介した8番と較べるとそれほど苛烈さは前面に出ていません。しかし、同じくマルケヴィッチが録音したハイドンの 交響曲第104番 ニ長調「ロンドン」と続けて聞いてみれば、この二つのシンフォニーがきわめて近い兄弟関係にあることがよく分かります。
マルケヴィッチのハイドンは、ハイドンのシンフォニーにしてはあまりにも堂々たるシンフォニーに仕上がっています。そして、こちらの1番の方はこの上もなく古典的な均衡に満ちたシンフォニーとして立ち現れています。
古典派職人とも言うべきハイドンと、異形の巨人ベートーベンがその接点において歩み寄ったような風情がこの二つの録音には漂っています。
さて、私はベートーベンの交響曲を品定めするときは、昔は第3番「エロイカ」を使っていました。分かりやすく言えば、エロイカを聞いてだめなら、その指揮者のベートーベンはだめ、後は聞くまでもないというスタンスです。
何しろ聞いてみたい音源は山ほどあって、それがベートーベンの交響曲ともなれば未聴の山は高く積み上がっていますから、つまらぬ演奏に時間をとられている暇はないというわけです。
そして、それが何時しか品定めの曲が「エロイカ」から「田園」に変わっていきました。
これは別に大きな理由はなくて、経験の積み重ねの中で、そちらの方が品定めには相応しいと感じるようになってきたからです。
まずは、冒頭の部分でオケをどれほど伸びやかに歌わせてくれるか、管楽器の響きは美しいか、嵐の場面での迫力やいかに、そして何よりも最終楽章の牧人のテーマがどれほどしみじみと心の底から歌い出してくれるか、等です。
そして、このマルケヴィッチ&ラムルー管によるベートーベンもまた「田園」から聞いてみたのですが、これがもう、とんでもないはずれの演奏だったのです。
さらに、録音もモノラル録音ではあっても57年辺りならば極上というのが通り相場なのに、これもまた何とも冴えないものだったのです。
結論として、さすがのマルケヴィッチも、ラムルー管でベートーベンを演奏するというのはきつかったんだな・・・と言う事で、その時は田園以外の録音は聞かずに終わってしまったのでした。(^^;
省力化は大事ですが、そういう風に手間を惜しむと、時に大きな間違いを犯すと言うことを今回は教えられました。
マルケヴィッチ&ラムルー管のベートーベンは、田園だけが何故か最低の演奏と録音なのですが、それ以外に関しては、明晰さを指向するベートーベンとしては一つの頂点とも言える演奏となっているのです。確かに、「ベートーベンと言えばフルトヴェングラーが最高!」という人にとってはあまりにも軽すぎると思われるでしょう。
私もかつて、「自然は芸術を模倣する」という言葉になぞらえて「ベートーベンは今もフルトヴェングラーを模倣し続けている」と書いたことがありました。あの重厚な、物語性に満ちたベートーベンは、その方向性でのベートーベンとしては疑いもなく頂点に君臨する演奏でした。
しかし、偉大な音楽作品というものは、必ず多様なアプローチを容認するものです。
年を重ねて、フルトヴェングラー以外にもいくつもベートーベンという頂きを目指す道があると言うことはよく理解できるようになってきました。
ここで紹介した5番「運命」は、聞きようによっては響きが重くなることがないのでスケールが小さいと思われがちですが、じっくりと腰を据えて聞けば、オケは途轍もない響きを実現しているのです。それは、最終楽章で、おそらくは録音側が想定した以上の強奏によってリミッターがかかったようになっている部分があることでも分かります。
まさに、楽器を次々と重ねていくことでかつて無いほどのデュナーミクの幅を実現しようとしたベートーベンの意図が見事に実現されています。
つまりは、一つ一つの楽器はきわめて明晰に鳴り響いているのでオケ全体の響きは軽く聞こえるのですが、それでいながらその個々の楽器は完璧に鳴りきっているのでスケールは必ずしも小さくないのです。
その意味で、これこそはアポロン的表現の極値とも言えるベートーベンを実現しているのです。
マルケヴィッチ&ラムルー管によるベートーベン録音の中では、これがもっともマルケヴィッチの意図が形となったものだと思います。
そして、8番の交響曲にもその様なマルケヴィッチの執念がしっかりと刻印されているのです。
8番という交響曲は、一般的には7番と9番に挟まれた美しくはあってもこぢんまりとした音楽だとして軽く見られてきていました。
しかし、その第1楽章はこの時期のベートーベンには珍しく、いきなりフォルティッシモで第1主題が提示されます。さらに、その後もフォルテ記号の嵐なので、おそらくこれを譜面通りにやると血管がぶち切れそうになるはずです。
ですから、その辺りをどほどに手加減をして美しくまとめるかが指揮者のお仕事みたいな事情もあったので「美しくはあってもこぢんまりとした音楽」と言う誤解を招く結果となりました。
しかし、そのフォルテの嵐とも言うべき譜面面を見る限りは、8番の交響曲というのはこぢんまりした交響曲どころかかなり異形の音楽になっているのです。
そして、その異形ぶりをこのマルケヴィッチの演奏はものの見事なまでに描ききっています。
それはもう、何とも言えないほどの苛烈な演奏です。
出来得れば、それなりの再生システムで、音量やや大きめで再生すれば、その血管ぶち切れの凄みが十分に伝わってくるかと思います。
交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」作品125
(S)ヒルデ・ギューデン (A)アーフェ・ヘイニス (T)フリッツ・ウール(Br)ハインツ・レーフス (合唱)カールスルーエ・オラトリオ合唱団
マルケヴィッチ&ラムルー管による5番を紹介したときに「もっともマルケヴィッチの意図が形となったもの」と評しました。しかし、その言葉に対して「それではこの第9番はどうなんだ!?」という声が聞こえてきそうです。
確かに、これもまた悪い演奏ではありませんし、フランスのオケによる第9というのはかなりレアなので、その面での興味もあります。
冒頭の茫漠とした響きが次第に明確な形を為していく場面でさえも、その茫漠たる様子が「明晰」に表現されています。こんな書き方をすると悪い冗談のようなのですが、そう書かずにはおれないほどの強烈な明晰さへの指向が全曲を貫いています。
あの美しい第3楽章もまた、音楽が止まってしまうのではないかと思うようなフルトヴェングラー的な美とは対極にありながら、音楽に込められた深い感情は聞き手にしっかりと伝わってきます。
ただ、問題は常に第4楽章に存在します。
オケと指揮者がどんなに頑張っても、最後に合唱と独奏者が入ってきた時点でぶちこわしてしまうのは、この国の年末の風景としても定着しています。
合唱は健闘はしていますが、明らかに第1級のレベルには届いていません。マルケヴィッチがオケに対してあれほどの明晰さを要求したのですから、もう少し合唱団に対しても徹底したかったです。しかし、マルケヴィッチという人は相手の限界を見極めて、その範囲内で形を整えるという職人技(あの有名な日フィルを指揮しての春の祭典)をもっていたので、ここではその職人の一面が前に出たようです。
さらに、ソリストもまた概ね健闘していますが、これもまたオケのがんばりと較べれば見劣りがします。
しかし許し難いのはテノールです。
「おお、友よ! このような調べではない!」と歌い始めた瞬間に、ほとんどの聞き手は「おお、友よ! このような歌ではない!」と突っ込みを入れたくなるはずです。
そして、ラムルー管はこのような偉大な成果を上げながらも、その成果のために払った「労働」に絶えきれずに、マルケヴィッチを追い出して、もとの緩いオケに逆戻りしてしまいます。
そう言えばフランスはカソリックの国でした。そして、カソリックでは「労働」は神から与えられた「罰」だったのです。彼らにとっての「人生」とは、リハーサルやコンサートが終わった後に始まるものであって、間違ってもその様な「人生」を犠牲にして偉大な演奏を成し遂げることではなかったのです。
もしも、そんな事をはじめたら、その瞬間に彼らはフランス人ではなくてドイツ人になってしまいます。
そう思えば、第4楽章にあれこれの不満は残るものの、オケに関してはフランス人がドイツ人になる一歩手前で実現した希有な響きを実現した第9だとは言えそうです。