優雅さと品の良さ~シャーンドル・ヴェーグ

シャーンドル・ヴェーグと言う名前が始めて私の視野に入ってきたのはカメラータ・ザルツブルクの指揮者としてでした。とりわけ、そのコンビによるモーツァルトのディヴェルティメント集の録音は、今も、心がいささか窮屈になってきたときには聞いてみたくなる演奏です。
決して急ぐことなく、ゆったりと、そしてある種の優雅さを失うことのない演奏を聴くと鬱屈していた心も解きほぐされて、楽に呼吸が出来るようになるのです。
それから、同じくモーツァルトの初期の交響曲も、このコンビでよく聞きました。
この初期交響曲の録音はディヴェルティメントほどには話題にはならなかったのですが、録音そのものが決して多くない作品なので、これもまたよく聞いた録音でした。

シャーンドル・ヴェーグ

ですから、私にとってのシャーンドル・ヴェーグのイメージは、才能溢れる若き学生たちから慕われる老巨匠というものでした。
ただし、若い頃は何をしていたのかはあまりよく分からないという存在でもありました。

シャーンドル・ヴェーグが現役のソリストとしてバリバリ活躍していたホームグラウンドは室内楽の世界、特に力を注いでいたのがカルテットの世界でした。
彼は1935年にハンガリー弦楽四重奏団を結成してその第1ヴァイオリンの席に座るのですが、やがてその席をゾルターン・セーケイに譲り、自らはセカンドに回ります。ですから、このハンガリー四重奏団はセーケイの名前と結びつけて記憶されることになります。

このハンガリー四重奏団が戦争の影響で活動の本拠をオランダに移すと、ヴェーグはハンガリーに残ることを選んで、新しく自らの名を冠したヴェーグ四重奏団を結成します。そして、戦後ハンガリーから亡命したあとも彼の活動の拠点はこの四重奏団であり続け、1970年代の半ば頃までその演奏活動が続けられました。
そして、その活動に一つの区切りをつけたあとに引き受けたのがカメラータ・ザルツブルクの指揮者だったのです。

ヴェーグ四重奏団はその実力が高く評価されながら、同時代の他の弦楽四重奏団と較べると認知度が今ひとつ低いように感じます。ですから、指揮者としてのヴェーグしか知らない人も少なくないように見えます。
調べてみると、ベートーベンの弦楽四重奏曲の全曲録音を50年代と70年代の2回にわたって行っています。ベートーベンの弦楽四重奏曲ともなれば1回全曲録音を行うだけでも大変なものなのですから、それを2回も行っているというのは、彼らがいかに高く評価されていたかの証しだと言えます。
ただし、その録音を聞いていると、結果としての認知度が何故に低いのかも分かるような気がします。

一言で言えば欲がないのです。
音楽は何処まで行っても優雅で品がいいのですが、売れるがための押し出しと言うことに関してはいささかインパクトが低いのも事実です。

やはり、芸の世界というのは前に出てなんぼ、と言う面は否定できません。カラヤンやバーンスタインのように、そう言う押し出しに関しても抜かりのない人は記憶に残りやすいのですが、ヴェーグという人はそう言うタイプの人間からは最も遠い位置にいたのかもしれません。

この52年に集中的に録音された演奏を聴くと、そこにあるのは昔も今も、そして未来に向かってもこうやって私たちはベートーベンを演奏していくんだという思いが伝わってきます。

彼がかつて在籍したハンガリー四重奏団も同じ時期に全曲録音をしているのですが、そこでは「ベートーベンのスコアをもう一度徹底的に洗い出し、その研究の成果を現実の演奏として世に問う」という「売り」がありました。
同じく、ブダペスト弦楽四重奏団も全く同じ時期に録音をしているのですが、そこでも、この時代を席巻し始めた「新即物主義」に基づいたベートーベンの再構築という「売り」がありました。

しかし、ヴェーグによるベートーベンにはその様な目新しい「売り」はなく、知的に音楽を作り上げながらも、その音楽には古き良き時代の優雅さと品の良さが失われることはありません。確かに、楽譜を蔑ろにするような演奏でないことは事実なのですが、だからといって即物的な乾いた演奏に陥ることは慎重に避けられています。
そこでヴェーグが一番大切にしているのは、ベートーベンという男の内面に渦巻いていたであろう感情であり、そう言う主情的な側面により強く焦点を当てた演奏なのです。

その意味では古いと言えば古いタイプの演奏なのでしょうが、そう言う演奏に居心地の良さを感じるのも年を重ねたせいなのかもしれません。

ベートーベン:弦楽四重奏曲全集 ヴェーグ弦楽四重奏団 1952年録音

  1. ベートーベン:弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 OP.18-1
  2. ベートーベン:弦楽四重奏曲第2番 ト長調 OP.18-2 「挨拶」
  3. ベートーベン:弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 OP.18-3
  4. ベートーベン:弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 OP.18-4
  5. ベートーベン:弦楽四重奏曲第5番 イ長調 OP.18-5
  6. ベートーベン:弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6
  7. ベートーベン:弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 OP.59-1 「ラズモフスキー第1番」
  8. ベートーベン:弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 OP.59-2 「ラズモフスキー第2番」
  9. ベートーベン:弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 OP.59-3「ラズモフスキー第3番」
  10. ベートーベン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74 「ハープ」
  11. ベートーベン:弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調OP.95「セリオーソ」
  12. ベートーベン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127
  13. ベートーベン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 OP.130
  14. ベートーベン:弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 OP.131
  15. ベートーベン:弦楽四重奏曲第15番 イ短調 OP.132
  16. ベートーベン:弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 OP.135
  17. ベートーベン:「大フーガ」 変ロ長調 OP.133