フェルメール:「レースを編む女」

小品でも凄いものは凄い

2008年5月19日 追加

ブリューゲルの「雪中の狩人」では作品の大きさが持つ「凄さ」ばかり書いたので、これでは「でかけりゃいいと思っている」と誤解されそうですから、今回は小品の魅力について触れておきます。
ただし、いささか自慢めいた話にもなりますので、その辺はご容赦ください。

初めてルーブルを訪れたときにとても心惹かれる小品がありました。

Lacemaker

黄色い服を着た女性が一心に刺繍をしている絵です。とにかくその色の美しさは格別で、すっかり感心してしまいました。
その手の作品はそれこそ掃いて捨てるほどあるルーブルですから、そんな絵の前で立ち止まる人はいません。また、作品自体も全く無造作にかけられているだけで、「別にどうってことない作品ですよ!」と言う雰囲気です。

もっとも、ルーブルと言うところは、ごく限られた作品をのぞけば、ほとんどの作品がそんな風に無造作に展示されているだけなのですが。
しかし、繰り返しになりますが、その色の美しさは格別だったので不思議と心惹かれるものがあり、その前からどうしても立ち去ることが出来ず、その精緻きわまる作品の素晴らしさの秘密を探りたくて、立ち位置をあれこれ変えてすっかり見入ってしまいました。

その後、ルーブルの売店をのぞいていると、その気になる作品がポスターとして売られているのを見て、やはりそれなりに人気のある作品なんだと思いそのポスターを買い込んできました。

そして、日本に帰ってきてから調べてみると、その画家は「フェルメール」と言うことが分かりました。

お恥ずかしながら、その時は全く初めて耳にする名前で、調べてみるとこれがとんでもない大物であることが分かり驚いてしまいました。

そして、その時は「おお、なかなかに絵を見る目があるじゃないか!!」とすっかり上機嫌になったのですが、落ち着いて考えてみると、凄いのフェルメールの方なんだと気づかされました。

美術に関する知識のないものにでも、その魅力で足を止めさせ、ポスターまで買い込ませるとは、さすがはフェルメールです。
つまり、本当にいいものは小品であっても、圧倒的な大作以上に人をひきつけます。

フェルメール・ラバーたちの巡礼

その後、さらにフェルメールについて調べてみると、世間には「フェルメール・ラバー(Vermeerlover)」と呼ばれる人々が存在することも知りました。
彼女たち(不思議なことにフェルメール・ラバーの大部分は女性なのです)は、世界中の美出館に散在するフェルメールの全作品を己が目で見んと、人生をかけて世界中を旅するのだそうです。

この寡作の作家は、現存する作品数が40点に満たないそうです。真作か偽作かの議論はいくつかあるようですが、現在真作に間違いないと確認されているのは36点と言うことで落ち着いています。
そして、そのうちの1点(イザベラ・スチュワ-ド・ガ-ドナ-美術館所蔵の「合奏」)は盗難にあって現在もなお所在不明なので、フェルメールの作品は世界中でわずか35点となります。

これは実に微妙な点数です。
100点を超えてしまえば、その全作品を見るために世界中の美術館をめぐるというのは現実問題として不可能でしょう。
さらに言えば、それだけの作品数になると何点かは個人の所蔵になっているものもあるでしょうから、全ての作品を自分の目で見ると言うことは結局は諦めざるを得ません。

ところが、フェルメールの場合はわずか35点です。
そして、その作品の全ては「部屋の改修」とか、「特別展への貸し出し」などの事情がない限りそれぞれの美術館で常設展示されているのです。熱意さえあれば、それらの美術館を巡礼のようにめぐることで、フェルメールの全作品を自分の目で見ることは十分可能なのです。
ここに、フェルメール・ラバーと呼ばれる人々が生まれる最大の素地があるように思われます。
さらに、日本人は昔から「巡礼」というスタイルは好きですから尚更でしょう。

もちろん、そうやって人々を巡礼の旅に駆り立てるほどの魅力をフェルメールは持っている事が最大の理由ではあるのですが・・・。

どこで騙されのだろう?

「レースを編む女」は一人の女性が一心に針を持って何かを縫い上げているという、ただそれだけの「絵」です。
しかし、どんなに目をこらしてみても、その肝腎の「針」は描かれていません。目に見えない「針」を使って彼女はいったい何を縫い上げているのでしょう。

おそらく、その辺のことは、この絵が描かれた当時ならば誰もがすぐに分かる「寓意」によって簡単に納得できたのでしょう。

「寓意」というのは、例えば、赤い枕は、怠惰と好色、りんごは禁じられた愛を表しているなどと言う「約束事」のことです。

しかし、フェルメールの凄さは、そんな「寓意」が全く意味を持たなくなった後の時代においても、「絵」そのものの圧倒的な存在感で見る者の心を捉えてはなさいと言うことです。
しかし、その存在感がどこから来るのか、この絵の前であっちへ行ったり向こうへ行ったり、前に来てのぞき込んでみたり後ろに下がって全体の構図に目をこらしてみたり、色々見方を変えてみてもよく分からないのです。

ファンタジーとは細部のリアリティを積み上げて嘘をつくことだと言ったのは誰だったでしょうか?
このフェルメールの絵もまた、細部は驚くほど緻密に描きこまれているのに、絵そのものの雰囲気はファンタスティックなまでに現実から抜け出しています。

では、どこで騙されたのか、それがよく分からないのです。
おそらくは、その分からなさの「神秘性」こそがフェルメールの最大の魅力なのかもしれません。

最後に余談ながら、我が住まう街の鼻先までフェルメールの作品がきたことがあります。
2000年に大阪市立美術館で行われた「フェルメールとその時代」展です。

しかし、そのあまりの人ごみに恐れをなして、結局行かなかったのです。
ルーブルでは、その作品の前をみんな無視して通り抜けていたのですが・・・。
でも、フェルメールの作品が5点も一堂に会するなんて「奇跡」みたいなものだという話を聞いて、やっぱり行っときゃよかったと後になって後悔したものでした。