精緻極まる運命~フリッチャイの61年盤

2013年11月2日 更新

Fricsay聞くところによると、もっとも遅い「運命」らしいです。
私は基本的に遅いテンポの演奏は嫌いです。

何故ならば、そう言う「遅い」演奏の少なくない部分が老化に伴う機能不全の反映にしか過ぎない場合が多いからです。シルバーシート優先の「とある国」では、そう言う機能不全としか思えないような演奏を「老巨匠の枯れた至芸」と天まで持ち上げ、さらに返す刀で、適切なテンポで颯爽と演奏しきった若手の演奏を「精神性の欠片もない底の浅い演奏」だと切って捨てるのがクラシック音楽通のステータスであったりしたからです。
さすがにネット時代が到来し、情報が専門家から下々の大衆に流れるという垂直的な構造から、多くの人々によって共有され拡散されるという水平的な構造へと変換することで、そのような事大主義は影をひそめました。
存命中は「老巨匠」のブランド力がものを言っても、この世を去ってしまえば、その演奏に値した評価しか残らないようになったのは残酷なように見えても正しい姿なんだろうと思います。

早いテンポ設定に関しては、自ずと上限が決まってきます。それは、マルケヴィッチ(だったと思うのですが)が言ったように、その音楽を構成する最小単位が明瞭に聞き取れる範囲までです。テンポ設定が早すぎて細かいパッセージを弾きとばさざるを得ないようでは困ります。

しかし、遅いテンポに関しては明確な下限を設定することは困難です。
もちろん、作曲家の意図というものは尊重しなければなりませんから、一定の幅というものは存在します。例えば、この第1楽章は「Allegro con brio(速く活発に)」と記されていますから、このフリッチャイの録音がその範疇におさまっているのかと問われればおそらく答えは「No!」でしょう。
しかし、この演奏が作曲家の意図に反したものかと問われれば、それほど簡単に「No!」とは言い切れないことも明らかです。何故ならば、「Allegro con brio(速く活発に)」とは言い切れないだろうが、その逸脱は「解釈」の範疇にはおさまっているだろうと弁護することも可能だからです。
つまり、どこまでの遅いテンポ設定が許されるかは、「数値」に関わる問題ではなく、何を表現したいのかという「質」に関わる問題に置き換わるからです。

図式的に過ぎるかもしれませんが、遅いテンポ設定は主に以下の4つのパターンに分類されるような気がします。

  1. 機能不全
  2. 気まぐれ
  3. 構築
  4. 精緻

最も多いのが(1)の機能不全です。一般的には老化に伴って適切なテンポを維持できなくなったお年よりタイプに多いです。

(2)の代表格はメンゲルベルグでしょうか。全体としては普通のテンポ設定なのですが、何か気に入った場面に出くわすと「ここいいでしょう」みたいにテンポを落として親切に(?)提示してくれます。今では死に絶えました。

(3)の代表格は言うまでもなくクレンペラーです。一音ずつ念押しするようなテンポ設定で、くどいと言えばくどいのですが、結果として巨大な音の構造物が仕上がるというタイプです。
そこには、「音楽は建築だ!」という強固な意志が貫かれていて、その解釈を実現するために遅いテンポ設定が不可欠になると言う強いポリシーが存在します。
しかし、さすがのクレンペラーも年を重ねるにつれて(1)の機能不全との線引きが曖昧になっていったことも指摘しておく必要があります。

そして、最後の「精緻」派です。
このフリッチャイの運命はこのタイプの典型だと言えますし、もしかしたら「創始者」かもしれません。

音楽を布地に例えれば、その折り目の一つ一つまでをも正確に表現しきろうという意志が貫徹しています。
ヴィジュアルであれば「拡大」すればいいのですが、時間芸術である音楽の場合だと時の流れを「遅くする」ことによって目的を実現することになります。

そしてそう言う折り目の一つ一つまでをも精緻に再現することで、結果として今まで気づくことのなかった布地の素晴らしさを再発見しようというポリシーに貫かれた演奏です。
晩年のチェリの遅いテンポもこの仲間に入れていいのではないかと思います。

ただし、このやり方はオケに負担がかかります。
クレンペラーのチャイコフスキー「悲愴」を紹介したときに、こんな事を書きました。

「(悲愴の第3楽章は)例えてみればジェットコースターみたいなもので、速ければ速いほど安定します。一回転をしようが錐揉みをしようが、スピードが乗っていれば誰も落っこちることもなく安心して乗っていられます。・・・オケのメンバーも然りで、こういう音楽は速いテンポで演奏してくれれば、そのテンポに乗って安心して気分よく演奏ができるのです。当然のことながら、プロならば誰も落っこちる奴なんかいません。

ところが、クレンペラーはそのジェットコースターを低速で運転させます。
さあ、大変です。
死にものぐるいでジェットコースターにしがみついていないと振り落とされてしまいます。そんな時は、間違っても、「ワーッ!」と「キャー!」なんぞという叫び声は出るはずもありません。聞こえてくるのは「ウッ」とか、「グッ」とか言う、のどの奥からくぐもったうめき声がもれてくるだけです。」

精緻派の場合だと、ジェットコースターにしがみついているだけでは話にならないのですから、事情はさらに大変です。

フリッチャイがこの運命を録音するために、かなりの時間をかけたのではないかと想像されます。そうでなければこのような演奏は絶対不可能です。
そして、驚くべきは、そのようなフリッチャイの要求に完璧に応えきっているベルリンフィルの弦楽セクションの凄さと素晴らしさです。
そして、そう言うオケを築き上げた最大の功労者は疑いもなくカラヤンだったはずです。

彼は、ベルリンフィルを鍛え上げ、完全に手中に収めたことを確認した上でこの翌年からベートーベンの交響曲の全曲録音に取りかかります。そこで、彼が目指したのはこのフリッチャイのベートーベンとは真逆のものでした。
恥ずかしながら、その快速テンポで表現されたベートーベンを「精神性の欠片もない底の浅い演奏」だと切って捨てた過去を持っています。
事大主義とは怖いものです。


1件のコメント

  1. フリッチャイの演奏。晩年はかなりテンポが遅くなり、聴いていて強烈な信念を感じます。最晩年に録音したコダーイなど、ジョージ・セル盤と共に素晴らしい名演です。
    ただ、短命だったのが非常に惜しまれます。フリッチャイ同様にカンテルリ、ケルテス、アルヘンタ等の指揮者たちがもし長命だったら、クラシック音楽指揮界の構図は変わっていたかも知れません。

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