日本には古くから「千両役者」という言葉ありました。
この言葉は稼ぎの多さで役者の技量を褒め讃えたのが始まりのようなのですが、次第にそう言う「金銭的価値」からは離れて、真に優れた役者に対する褒め言葉に転化していきました。
それは今の芸能界を見わたせば分かる話で、どれだけ多額のギャラを稼いでいても、「千両役者!!」と大向こうから声をかけたくなるようなオーラを身につけていない人はいくらでもいます。
なぜならば、この言葉を奉るには「今の輝き」の証しである「高額のギャランティ」だけでは不十分だからです。
「今」がそれなりに輝いていても、それはたまたま時流に乗って輝いているだけかもしれず、これから先どうなるか分かったものではないような役者にこの言葉は使えないのです。
そこにはどうしても、「今」に至る「過去」からの積み重ねが必要不可欠であり、そういうトータルなものに基づいてその人の「未来」への確証が持てなければ「千両役者!!」という言葉は使えないのです。
そして、疑いもないのは、この「千両役者!!」というかけ声を思わずかけたくなるような芸を持った人はどの分野でも本当に少なくなってしまったことです。
こう書くと、それは概ね「年寄りの愚痴」のようになるのですが、そしてそれが「年寄りの愚痴」と切って捨てられればいいのですが、目の前にある現実はそれほど簡単に切って捨てることが出来ないほどに深刻な状況になっているように思われます。
そして、その深刻な状況がより深刻なのはクラシック音楽の世界です。
古い録音は、ただ「古い」と言うだけで見向きもされない方が多いようです。
なかには「モノラル録音」と言うだけで「聞く対象」から外してしまう方もおられるようです。そうなれば、「SP盤」時代の録音などは視界の片隅にも入ることはないのかもしれません。
しかし、そこは少しばかり心を広く持ってもらって、そう言う「古い」と言われる録音を実際に自分の耳で素直に聞いてもらえれば、この一世紀近い時の流れで進歩したことはたくさんあっても、その事との引き替えではなかったにしても、また同じほど多くの大切なものを失ってしまったことにも気づくはずです。
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
(P)アルトゥル・シュナーベル ジョン・バルビローリ指揮 ロンドン交響楽団 1934年5月2日録音
Mozart:Piano Concerto No.27 in B-flat major, K.595 [1.Allegro]
Mozart:Piano Concerto No.27 in B-flat major, K.595 [2.Larghetto]
Mozart:Piano Concerto No.27 in B-flat major, K.595 [3.Allegro]
音源に何か問題があったのか、モノラル録音なのになぜか音像が左側に偏っています。いささか不自然と言えば不自然な困った録音なのですが、それでも聞くに値するものを持っています。
シュナーベルはともすればそのテクニックの弱さを指摘され続けた人なのですが、「演目」がモーツァルトの最後のピアノ協奏曲ならばそう言うことも大きな問題にはならなかったようです。
この録音では、「ピアノを歌わせる」事に関しては天賦の才があったシュナーベル美質がいかんなく発揮されています。
とりわけ、緩徐楽章での思い入れたっぷりの歌わせ方は聞くものの心に染み込むもので、そう言う演奏は今では絶対に聞くことが出来なくなったものであるがゆえに、「千両役者!!」というかけ声をかけたくなります。
そして、そういうシュナーベルのピアノに機敏に反応するバルビローリの「歌わせ上手」も見事なものです。
そこには、後年のバルビローリの美質が若い頃からしっかり根付いていたことをはっきりと示したものでした。
もちろん、これを聞いて、「これではまるでロマン派のピアノ協奏曲みたいではないか」とか、「様式的に考えればあり得ない演奏ですよ」等と、賢しらに批判することは容易いことです。
そして、近年の多くの演奏家はそう言う賢しらな批判に曝されることを恐れて、どこからも文句が出ないような「最大公約数」的解釈に基づいた演奏を極めて高いテクニックで実現するようになりました。
その事は、解釈においてもスキルにおいても演奏のレベルを飛躍的に向上させたことは一つの事実であり、それがもたらした「進歩」は否定するものではありません。
しかし、その事は逆から見れば、こういうシュナーベルのような「我が儘な演奏」が絶滅したことを意味しました。
なぜならば、シュナーベルには「シュナーベルがやっているんだから、これはこれで仕方がないよね」と黙らせてしまう力があったのですが、時代が下がるにつれてそう言う力を持った演奏家はどんどん少なくなっていき、私見によれば、それはカルロス・クライバーの死によってこの世界では絶滅したと見るしかないからです。
しかし、この録音を歴史に中において眺め直してみれば、そう言うスタイルの演奏家にとって生きにくい世の中はすぐ目の前に迫っていたことにも気づかされます。
この二人にとって1934年という年はどのような年だったのでしょうか。
チェリストとして音楽家としてのキャリアをスタートさせたバルビローリにとっては、指揮者に転向してその前途が洋々と開けようとする時期でした。
彼はこの2年後にニューヨークフィルの首席指揮者に抜擢されます。
シュナーベルにとっては、1932年から開始した、執念とも言うべきベートーベンのピアノソナタの全曲録音が現在進行形の時でした。
大陸の方ではナチスが政権を握るという不穏な動きも起こっていたのですが、この時の二人にとってはそれは対岸の火事だったでしょう。
もちろん、あれやこれやと大変なこともあったでしょうが、二人とも人生は上り坂、絶好調の時代だったはずです。
そこには、第1次大戦で大きな傷手を負いながらも、未だ輝きを失っていないヨーロッパの残光が疑いもなく存在していたからです。
そんな二人にとって、躓きの石となるのが対岸の火事だったはずのナチスの台頭であり、アメリカという異文化との出会いでした。
イギリスではその才能を十分発揮できていたバルビローリも、ニューヨークでの日々は思うに任せぬ不遇の日々が続き、ついには大戦のさなかにイギリスに舞い戻ることになります。
シュナーベルの場合はもっと悲劇的でした。
彼がアメリカの商業主義とマッチングしないことはアメリカデビューの時から分かっていたことでした。
興行主から「あなたは路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませるようなことができないのか」と言われても、「24ある前奏曲の中から適当に8つだけ選んで演奏するなど不可能です」と応じるような男だったのです。
そんな男がナチスによってアメリカへの亡命を余儀なくされたのは不幸以外の何ものでもありませんでした。
ナチスの台頭と跋扈、そして「神々の黄昏」とも言いたい大戦末期の断末魔の中で、千両役者が辛うじて生き残る事が出来ていたヨーロッパはズタズタに引き裂かれてしまいました。
そして、それに変わって大きな力を持つようになったのが、「千両役者」だったシュナーベルが心底嫌ったアメリカ的な商業主義であり、それが世界中をリードするようになったのです。
言葉をかえれば、「千両役者」が舞台で見得を切る芸の世界はショービジネスの世界に取って代わられていったのです。
もちろん、このコンチェルトを二人が録音した時には、その様な「未来」が待ち受けているとは想像も出来なかった時代でしたから、この音楽の中には滅び行くヨーロッパの残り香のようなもの封じ込められることになったのです。
もちろん、今もショービジネス化の流れは止まることはありません。もちろん、ショービジネスというものを全面的に否定するつもりはありません。
しかし、ショービジネスというものは時流に乗って話題を集めそうな才能を見つけてきては使い捨てにして恥じることもありません。
私はよく、そんな古い録音ばかり聞いていて何が楽しいのか、と問いかけられます。
もちろん、聞くに値する演奏と録音があればと思って、一般的な感覚からすればかなりのコストも投入して多くの公演に足を運び、「新譜」と呼ばれる録音も聞いてきました。
しかし、最近は、すっかり、それこそ心の底から「虚しく」なってきました。
クラシック音楽の世界は瀕死の状態だと思っていたのですが、もしかしたらすでに死んでるのかもしれません。
死んでいるなら、これからはなんの遠慮も気兼ねもなく死んでしまった爺さんや婆さんたちとすごすだけです。
そして、人というものは、怒りと腹立たしさであっても、それが行き着くところまで行って、向こう側で突き当たって帰ってくるところまで行くと、虚しくさの果てに笑えてくるものです。
レコード芸術誌による今年の「レコード・アカデミー賞」の大賞が「テオドール・クルレンツィス指揮 ムジカエテルナ」による「チャイコフスキー:交響曲第6番 悲愴」で、銀賞が同じコンビによる「ドン・ジョヴァンニ」だったそうです。
1年の最後を笑って終われるとは幸せというものです。
(最近は口を慎んでいるのですが、年の最後に一度くらいはいいでしょう。気分を害された方がいましたら深謝m(_ _)m
個人的には「クルレンツィス」なる指揮者にも「ムジカエテルナ」なる古楽器を含む室内楽オーケストラ団体にもなんの怨みありませんし、「新譜」と呼べるような録音はほとんどない昨今の状況を見れば、それもまた仕方のない選択だったのかもしれません。)
私は、幸か不幸か絶対音感を持ち合わせているので、あのピリオド演奏の、半音だか全音だか、又はその合間か、日ごろ慣れた音程から著しくずれた演奏が我慢なりません。カラヤンの一部の演奏(70~80年代の妙に音程が高いものです)が嫌なのも、同じ理由からです。昔と比べて20世紀中は大幅に音程が上がったので、バロックや古典の曲を「忠実」に再現するには音程を下げなければいけない、という主張もわからなくはありませんが、どうせやるなら、「とりあえず半音下げて」などと中途半端な事はせず、「バロック時代後期は今より平均して(例えば)全音プラスマイナス1/4くらい低かったので、季節や天気も考慮して今日は全音+1/8下げて演奏!」くらい徹底してくれれば、もう少しその努力は認める気にはなるのですが...それでも、あの音色にはすぐ飽きが来るでしょうね(苦笑)。
それはさておき、クラシック音楽はやはり本当に、瀕死の(死んだ?)状態なのでしょうか。確かに世界的に見ても、相変わらず大旗を振るう原典主義、裸の王様もはだしで逃げ出しそうな前衛音楽、そして、もう小難しい事は趣味の対象にしない一般聴衆という、トリプルパンチを浴びせ続けられているように感じます。
とはいえ、欧州方面の話になりますが、まず前衛音楽に関しては、ここ2,3年徐々にですが勢いが衰え始めたように感じます。数年前までは、例えばBBCプロムスコンサートシリーズで、初演という初演がとても我慢ならない雑音ばっかりでしたが、最近はもうちょっと耳に良い初演ものも聴けるようになってきています。ただ、取って代わっているものが半分ポップスの様な、相変わらずよくわからない旋律を無理やりポップスの流れに乗せたようなものが増えつつあるので、もうしばらく迷走を続けるかもしれませんが...しかし、変化の兆しはあると思います。
次に演奏家ですが、コンサートを聴く限りでは近年、「蒸留水」にもう少し香りを加えたような、聴いていてちょっぴりうれしくなるような演奏もたまにはあると思います。例えばマリン・オールソップやサカリ・オラモですが、大概聴いているうちに本人も楽しんで演奏しているんでないか、という気にさせてくれます。再びBBCプロムスを引き合いに出しますが、他の常連でも例えばユロフスキーやダウスゴーは近年あまりにも退屈で聴いていられないので、決してプロムスというお祭りだから皆楽しい演奏、というわけでもないと思います。ピアニストでも、前回のリーズ・国際コンクールで、1人だけですがアッと言わせてくれる演奏をした人がいました(名前は思い出せませんが、ブラームスの協奏曲が印象的でした)。ですので、観客を良い意味で楽しませてくれる指揮者、抜きんでた才能を持った演奏者も、いる事はいるかと思います。現状では絶対数が少なすぎるでしょうが、こういったかすかな兆しが徐々に実態をもって、「原典主義」の砦に大穴をあけてくれれば希望の光が差すのですが、いかがでしょうね。尤も、録音の方はさっぱり聴いていないので、もしかしたらそんなアマい話ではないのかもしれませんが...
せっかく見えそうな希望の光を覆い隠すようで恐縮ですが、最後に一般聴衆やメディア・ショービズの話、これが一番厄介な問題なのでは、と思っています。というのも、原典主義や前衛もので聴衆を遠ざけ続けてきた近代クラシック史、難しい事には興味を示さないせっかちな現代の聴衆、そしてそれに乗じて、優秀な才能は食いつぶして使い捨てにするショービジネスと、複合的な要素が手に負えないほど問題を大きくしているのでは、と感じているからです(もちろん、これは聴衆だけの責任ではありませんが)。yung様が日ごろ仰るとおり、クラシック音楽が敷居の高い趣味であるというのは事実で(尤も、どんな趣味でも突き詰めれば難しい面は必ずあると思うのですが)、しかも過去50年以上にわたり我慢を強いる音楽ばかり生産してきたとなれば、いまさら聴衆の心を掴むのは至難の業でしょうし、掴んでスターになれば5年で使い捨てにされるでしょうから、そんな新たな才能や芸風が育つ土壌も無い現在ではクラシック音楽の復権など夢のまた夢(のまた夢...)、なのかもしれませんね...
近い将来完璧に死んでしまうかどうかは、まず聴くに値する音楽が復権を果たし、その上で一般聴衆が、再び現代の演奏家の技術や才能を正当に評価して長い目で見守り、流行にとらわれ過ぎず気長に芸術を楽しめるようになるか、そのあたりにかかっているのではないでしょうか。相変わらずラン・ランがマスコミに世界一のピアニストなどともてはやされ(彼にうらみはありませんし、クラシック界のピアノスターとして業界に再び光を当てた功績は大きいと思いますが、ホロヴィッツの様な真のスターであるかどうかは甚だ疑問です)、ちょっとカラオケがうまい一般人がキャサリン・ジェンキンス(汗)にも匹敵する今年最大の歌手と宣伝される現状では、お先真っ暗と言われても反論できないのですが...本当に困りましたねぇ。細々とでも生き残ってもらわないと、2世代くらい先には「ベートーヴェンってなに、おいしいの?」という世界になりかねません(苦笑)。
独断と偏見に基づいて、長々といろいろ書いてしまい、最後は何だか一般論的な愚痴になってしまいましたね、失礼しました。