「正当派ロシア」の世界~バラキレフ

バラキレフと言えば、ピアノの難曲として有名な「イスラメイ」ぐらいしか思い出せない人もいいはずです。
後は、音楽史の知識としてロシア5人組のリーダーとして活躍したと言うことが思い出されるくらいでしょうか?

Mily Balakirev

実は、そうなってしまうには理由があって、5人組を理論的にひっぱていくだけの知識があったに関わらず、実作の分野ではとんでもない「遅筆」だったからです。その「遅筆」の最たるものがこの第1番の交響曲で、構想から完成までに33年もかかっているのです。

チャイコフスキーの初期交響曲を取り上げたときにも紹介したのですが、19世紀中葉のロシアでは「交響曲」の創作が大きな課題となっていました。何故ならば、遅れたロシアが音楽の分野でもヨーロッパに追いつくためには、ロシアの音楽家がクラシック音楽の王道である交響曲の分野において、ヨーロッパの音楽家が書いた交響曲に劣らないような「交響曲」を書くことが求められていたからです。
そして、その課題を成し遂げてくれるであろう期待の星がチャイコフスキーだったのですが、その戦線にバラキレフも参戦したのです。

Peter Ilyich Tchaikovsky

バラキレフがこのファースト・シンフォニーにチャレンジしたのは1864年のことだったと伝えられています。
チャイコフスキーが交響曲の創作に取りかかったのその1年後の1865年であり、その翌年の1866年に第1番の交響曲「冬の日の幻想」を完成させます。
しかし、バラキレフはスケッチの段階から前に進まず、チャイコフスキーがファースト・シンフォニーを完成させた1866年には創作活動を中断してしまいます。

そして、長い中段を経た1893年に再び創作活動を再開します。

この20年近い中断の間に、チャイコフスキーは『交響曲第2番 ハ短調 作品17「小ロシア」(1872年)』『交響曲第3番 ニ長調 作品29「ポーランド」(1875年)』『交響曲第4番ヘ短調作品36(1878年)』を完成させ、さらにはその後のスランプ期を経験しながらも、そのスランプを『マンフレッド交響曲作品58 (1885年)』で抜け出し、『交響曲 第5番ホ短調作品64(1888年)』と『交響曲 第6番ロ短調作品74「悲愴(Pathetique)」 (1893年)』を完成させていたのです。

つまりは、バラキレフにとっても、またロシア全体にとっても交響曲を書くという「使命」は終わっていたのです。

ですから、バラキレフがどのような思いでこの交響曲の創作を再開させたのかは「謎」なのですが、それでも20代の初めに創作に取りかかったこの作品を50代になって完成させようとしたわけです。
しかし、再開してもバラキレフの「遅筆」は相変わらずで、第1楽章と最終楽章の大部分と第2楽章のスケルツォが完成していたにもかかわらず、全体が完成するまでにさらに4年の時間が必要で、1897年になってようやく彼のファーストシンフォニーが完成したのです。
この時、既にバラキレフは還暦を迎えていましたし、チャイコフスキーは既にこの世を去っていました。

さて、そこまでの苦難の末に完成したファーストシンフォニーなのですが、確かにそれだけの時間をかけただけあって、実にきちんと書かれています。
また、さすがはロシア国民楽の親玉だけ会って、西洋風のスタイリッシュな交響曲を書いたチャイコフスキーとは違って、ロシア的情緒の色濃い作品になっています。とりわけ第3楽章の「Andante」はカリンニコフを思い出せるほどの憂愁に満ちた音楽です。

ただ、カリンニコフになくてバラキレフにあるのは、分厚い管弦楽の響きとほえまくる金管、叩きまくるティンパニーという「正当派ロシア」の世界です。(^^;

確かに、チャイコフスキーが既に「悲愴」までの7曲の交響曲を完成させてしまった時期を考えれば、この作品に何かの意味を見いだすことは難しいでしょう。
しかし、それを言えばカリンニコフだって同じ事です。
昨今のカリンニコフへの認知度を考えれば、少なくともそれと同等程度の評価は与えられて然るべき作品だとは言えます。

交響曲第1番ハ長調

  1. 第1楽章 Largo – Allegro vivo
  2. 第2楽章 Scherzo:Vivo
  3. 第3楽章 Andante
  4. 第4楽章 Finale:Allegro moderato

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1949年9月18日,21日&22日録音