話題をよんだジョージ・セルのザルツブルグ・ライブ

気がつけば大晦日です。

1999年1月1日 追加

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今年も終わりだなと、プランターの苗に液肥をやっていてふと気がつくと、雲の間から雪で白くなった金剛山が目に飛び込んできました。暖かい日が続いていたのですが大阪南部の町では、金剛山が白くなると冬本番です。

この暖かさで、まだまだ元気よく花をつけていた、アゲラタムやナスタチウム、それにインパチェンスなんかも終わりが近づいてきたようです。みんな、ゴールデンウイーク開けから花をつけ始めたのですから、半年以上、ほんとに頑張ってくれました。
ナスタチウムはたくさんの種を残してくれましたし、インパチェンスやアゲラタムはこぼれ種からきっと芽を出してくれるでしょう。
それから、アメリカンブルーは簡易温室に取り込む必要がありそうです。

そんなことを考えているうちに、急に空模様が怪しくなり雪が降り始めました。庭の芝生が少し白くなる程度でしたが、季節は確実に冬本番に入ったようです。

そういえば、暖かいといつもは外で昼寝をしているワン助どもが、今日は一人も外に出てきません。
犬がストーブの前で昼寝をしている時に、どうして外で仕事をしなくちゃいかんのだと、ぶつぶつぼやきながらの1998年最後の一日でした。

セルの前で萎縮しているロンドン交響楽団

遅ればせながら、今話題のジョージ・セルのザルツブルグライブのCDを買ってきました。
ついでに、ロンドン交響楽団を振ったチャイコの4番がCD化されたのでそれもゲットし、さらにディスク・ピアの輸入盤コーナーを漁っていると、いわゆるエルミタージュのルガーノライブがあるではないですか。
これは前から是非とも一度は聴いてみたいと思っていたCDだけに、思わずガッツポーズが出そうでしたね。お値段もたったの880円で、何万円出してもほしかったCDだけに、思わず神様に感謝しました。

そして、この年末に買い込んできたCDを聴いてみて、やはりセルは偉大な音楽家だったとの観をいっそう強くしました。

  • ロンドン交響楽団 チャイコフスキー:交響曲4番 エグモント序曲(ウィーン・フィル)も収録(POCL-4584)
  • ウィーン・フィル ベートーベン:ピアノ協奏曲3番・交響曲5番、エグモント序曲収録(C484981B)
  • クリーヴランド管弦楽団 シューマン:交響曲2番、ドビュッシー:ラ・メール、ベルリオーズ:ハンガリー行進曲(ERM106)

まず始めに、ロンドン交響楽団とのチャイコの4番です。これに関しては、レコ芸で実に適切な評が載っていました。

曰く、「フレーズ一つ一つから受ける好ましい印象に比べ、全体を通して聴いたときの印象が薄い」「細部の印象と全体の印象がかけ離れている」

おそらく、これで尽きているのでしょうが、セルが手兵のクリーヴランドについて語った有名な言葉「我々はほかのオーケストラが練習を終わる段階から練習をスタートする」を思い出しました。
ここでは、セルという恐ろしいお爺さんを前にして、ロンドン交響楽団は萎縮しているように感じます。

おそらく。セルにすれば当然と思える高度な指示に対して、ロンドン交響楽団のメンバーは追随するのが精一杯で、そのためにアンサンブルは申し分なく磨かれても、音楽を歌う余裕は残っていなかったようです。
この違いは同じチャイコでも、クリーヴランドといれた5番を聴けばその落差ははっきりします。
ここでは、完璧な響きを保ったまま躍動するオーケストラが聴けます。

まさに、このロンドン交響楽団との演奏はセル自身の言葉を借りれば、「ほかのオーケストラが練習を終える段階」で終わってしまっています。
しかし、ここでは覇気満々のセルの姿がうかがえて、ロンドンのエリートオーケストラをいたぶりたおしている姿がなかなかにおもしろい演奏です。アナログ盤と比べて音色的には大差はなさそうですが、とにかくまた一枚セルの録音がCD化されてうれしい限りです。

でも、この録音が終わった後、オケのメンバーはパブで酒をあおりながら、「あのじじい、今度あったらぶっ殺してやる」なんてわめいていたような気がするのですが、考えすぎでしょうか?

ウィーン・フィルとのあつい演奏、ザルツブルグライブ

ロンドン交響楽団との演奏と比べて、同じ他流試合でも、このウィーン・フィルとの演奏は随分印象が違って、様々なことを感じさせられます。
一言で言って、本当にあつい演奏です。
特に、ベートーベンの5番では、第3楽章の不気味にうごめく音楽が少しずつ高まり、その頂点で4楽章の第一主題が全合奏で奏される部分は圧巻です。その後はフィナーレまで、セルの棒に応えて、ウィーン・フィルも燃えに燃えて演奏しています。あちこちで木管がひっくり返ろうがお構いなしに驀進していきます。
ここには、ロンドンとは正反対の演奏が聴けます。前者では、セルの前で萎縮したように音楽が流れなかったのが、ここではアンサンブルの乱れなんかお構いなしに、思う存分に「ベートーベンの歌」を歌い上げています。

もともとセルという人は、あついロマンティシズムを持った人ですが、それを生の形でさらけ出すことを潔しとしない人でした。
彼はそれを常に強固な形式観、フォルムの中に閉じこめてより高い次元で昇華しようとしていました。
その姿勢が、クリーヴランド以外のオケとの他流試合では往々にしてぎこちなさや、どこかしっくりこない部分がつきまとう原因でした。この印象は、他のドレスデンやチェコとのとのザルツブルグライブでも感じられます。

しかし、このライブは、形式観やフォルムに固執するよりは、自らのロマンティシズムを前面に出すことを優先しているように見えます。

ここからは憶測ですが、おそらくこの演奏会の時にはセルは自らの体調の異変を感じていたのではないでしょうか。
1969年の8月の演奏ですから、後から振り返れば、セルに残された時間は1年もなかったことになります。おそらく自分の死期が近いことをすでに知っていたとしても不思議ではありません。
おそらく、彼はこの時期にいたって、自らのロマンティシズムを生の形でさらけ出すことを許したのだと思います。

プログラムのはじめのエグモント序曲では堅さが残っていますが、ギレリスとの協奏曲でセルの変化をウィーン・フィルは敏感に感じ取ったと思います。
これは本当にロマンティックなベートーベンです。
そして、最後の5番では、セルが求める大きな音楽のうねりを共感を持って表現しています。多少のアンサンブルのばらつきも音色に人肌の暖かさが感じられて好ましくさえ感じます。

セルはこの後に、EMIで手兵のクリーブランドのオケとシューベルトの9番、ドヴォルザークの8番を録音しています。ここでも、かつてのようにオーケストラを絞り上げるセルの姿は感じられません。しかし、さすがに長年の手兵ですから、セルが手綱を緩めても長年たたき込まれた形式観やフォルムは揺らぐことなく、この上もなく極上の演奏を聴かせてくれています。
それ故に、これほどまでにセルの内面を赤裸々にはさらけ出していません。
しかし、このザルツブルグのライブでは、押し込め続けてきたセルというこの希代の音楽家の秘めた内面を垣間見せてくれたように思います。

そんなセルが自らの紹介でザルツブルグに招いたのがギレリスです。
余談になりますが、この演奏を聴いてギレリスを再認識しました。
彼には剛腕ピアニストという印象が強くて敬遠していたのですが、第2楽章で聴かせる、はかなくも繊細な音色の素晴らしさはどうでしょう。先入観で人を見ることの怖さをまたもや教えられました。
ここでは、一年前にクリーブランドのオケといれた全集とは、全く別の音楽が聞こえてきます。

いくつか評を読んでいると、ピアノとオケとの丁々発止のやりとりを誉めているのが多いようです。
しかし、この演奏はどちらかというと、ピアノとオーケストラがやり合うと言うよりは、自らが紹介したギレリスという、希にみる優れたピアニストを必死でサポートするセルの姿を感じます。またギレリスもそんなセルの期待に応えて一世一代の名演を展開しています。
今となっては、セルがどんな思いでこのステージに上がったのかは知る由もありませんが、かくも貴重な演奏がCD化された事に感謝あるのみです。

セルの理想が聴ける貴重な演奏ルガーノライブ

そして、最後がこの有名なルガーノライヴです。
とは言え、有名なのはセルに関心を寄せている人の間だけでしょうから、少し詳しく説明しておきます。

おそらくこのCDは厳密に言えばセルがOKを出したものではないでしょうから、海賊盤の内にはいるのでしょう。
セルとクリーヴランドが始めて行ったヨーロッパ公演でのライブ録音です。場所はイタリアの小さな町のルガーノでのコンサートで、プログラムはシューマンの2番とドビュッシーのラ・メール、そしてアンコール曲と思われるベルリオーズのラコッティ行進曲です。

1957年5月31日の行われたこの演奏会の記録での最大の聴きものはシューマンの2番です。
もともと、シューマンの交響曲はセルの得意技の一つでした。スタジオ録音の交響曲全集はおそらくシューマン演奏の最良なるものの一つです。

しかし、このライヴの演奏はそのスタジオ録音とは次元の違う演奏です。
なぜなら、スタジオ録音では到底窺えなかったロマンティシズムの横溢が聴けるからです。
凄いのが、スケルツォ楽章とアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェという指示のある最終楽章です。

特に第2楽章では、高速でコーナーに突っ込んで、スピードを落とすことなくそのコーナーをスリリングに駆け抜けていくような爽快感を味わえます。
そして一番感心させられるのが、クリーヴランドのオケはそんなセルの棒に追随しながら、完璧なアンサンブルを崩すことなく驀進していくことです。一糸乱れぬ鬼のアンサンブルが生み出す底光りするような強靱な響きが、セルの棒に応えてアクセル全開で突っ走っていきます。
これこそが、セルが理想とした響きでしょうし、私たちが耳にできる最良の音楽の一つです。
疑いもなく。

確かに、ウィーンフィルとの演奏のような人肌のぬくもりを感じさせる演奏ではありません。ゆったりと聴けるような代物ではありませんん。
しかし、指揮者とオーケストラが最高の集中力をもって作り出す音楽は、昨今の軟弱きわまる演奏を聴かされてきた耳には極上の喜びを与えてくれます。
それにしてもこの集中力は凄いの一言に尽きます。

ただし、一部では「アンコールのハンガリー行進曲はハチャメチャになっていますから、逆にその大変さを感じさせてくれます。」などと書いている人もいるのですが、それは間違っています。あの曲はもともとあんなリズムの音楽なのです。
セルという人は、ライヴでも強固な形式観を崩さないと言う印象があったのですが、逆に言えばそういう演奏しかOKを出さなかったのかも知れません。

セルの、おそらくはあずかり知らないところで発売されたCDでこんな演奏が聴けるとすると、結構爆発する人だったのかも知れません。逆に言えば、よほど自分自身の手綱を締めておかないと内なる情熱が奔馬のように暴れ出すことを知っていたのかも知れません。
そんなあふれるような情熱の手綱を締めるだけ締めて、より高い次元で止揚したセルの芸術を多くの人に再評価してほしいと思います。

そしてセルに関してはもっとも責任のあるソニー・クラシカルは、彼の録音をしっかりとCD化してほしいと思います。
少なくともアナログで発売した分については責任を持ってCD化して下さい。そして可能であるなら、一枚でも多くのライブ録音をCD化してほしいと思います。セル生誕100周年を記念して自主制作されたボックスは本当にすばらしい演奏を聴かせてくれました。
まだまだ優れた演奏は埋もれていると思います。西暦2000年はセルの没後30年にあたります。

この世紀の変わり目に、20世紀の演奏史の一つの到達点を示すセルの芸術を、正当な姿で21世紀に受け継ぐ責任を感じてほしいものです。