ワーグナーの音楽というのは、なんだかんだ言っても、その価値の少なくない部分が人を仰け反らせるような巨大なオーケストラの響きに依存しています。そして、実演に接するたびに、その巨大さは「オーディオ」という枠の中には到底収まりきらないという「真実」を突きつけられて、いささか悲しい思いにさせられるものです。
ですから、「収まりきらない」という事実は認めながらも、それでも、少しでも状態のいい録音で聞くことの値打ちは認めざるを得ません。
録音なんかは少しくらい悪くても、その演奏が凄ければ少しずつ音の悪さなんかは気にならなくなってくる音楽もあります。
それに対して、価値の少なくない部分をオケの響きに依拠しているような音楽だと、録音の悪さはかなり厳しいマイナスポイントとならざるを得ません。
こんな事を書くと、なんだかワーグナーを貶しているように聞こえるかもしれませんが、決してそんなわけではなくて、ワーグナーという音楽家はそれまでの誰もが思い浮かべもしなかったオーケストラの響きをうみだしたと言うことです。
そこで、問題となるのは、そのワーグナーの響きをどのように現実の音に変換するのかです。
演奏の歴史を振り返ってみれば、道は二つに分かれるようです。
一つは、大きな響きのうねりとして巨大さをひたすら追求する道です。
フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなどがその典型となるのでしょうが、彼らはその巨大さを実現するための引き替えとして細部のクリアさは犠牲にしています。
二つめは、それとは対照的に、ワーグナーが生み出した希有の響きを克明に描き出そうとする道です。
彼らはその精緻さを実現するために、音楽がいささか小ぶりになってしまうことは仕方がないと割り切っているようです。
こういう図式化はあまりにも問題を単純化しすぎるかもしれませんが、それほど本質は外していないと思います。
そして、残念なことに、前者のようなスタイルで巨大なワーグナーを目指す指揮者はほぼ死に絶えてしまったようです。
私個人の演奏会体験としては、テンシュテットの最後の(と言っても彼は結局は2回しか来日できませんでしたが)来日公演で聞かせてもらったワーグナーが、その手のワーグナー体験の最後でした。
そして最近は、多くの指揮者はその精緻さに磨きをかけることに全力を投入したいようで、まるで「室内楽」のようなワーグナーを聴かされる事もあって恐れ入るときもあります。
そこで、この62年に録音されたセルのワーグナーです。
- ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死:1962年1月26日録音
- ワーグナー:「タンホイザー」序曲:1962年1月26日録音
- ワーグナー:「ニュルンベルグのマイスタージンガー」前奏曲:1962年1月26日録音
セルのワーグナーと言えば、68年に録音された指輪の管弦楽曲集が有名ですが、その底に流れるアプローチはほとんどかわっていません。
当然の事ながら、彼はワーグナー演奏の基本は精緻なオーケストレーションの妙を克明に描き出していくことです。そこには一点の曖昧さもなく、遅いテンポで音楽がもたれることはありません。
しかし、聞いてみれば分かるように、そのテンポ設定は速めではあっても一本調子ではなくて、そして、オケの響きは時にパワフルであり、ワーグナーの世界に内包される濃厚なロマンティシズムは清潔に描き出されています。
「濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれる」というのは日本語の表現としてはおかしいのですが、セルの描き出すワーグナーはそうとしか言いようがないのです。
そして、そこにこそ、セルという音楽家の根っこが世紀末ウィーンにあったという事実を思い出させてくれます。
さらに言えば、それこそが「原典尊重」という錦の御旗に隠れて、表現すべきものを何も持たない己を糊塗しようとしている連中との根本的な違いなのです。