あのカットが気に入らない・・・?
1999年12月28日追加
今年の年賀状には、「週一回はホームページを更新します」と書いてしまいました。
そういえば、夏にも発作的にそんなことを書いたのですが、全くの大嘘で終わってしまいました。今回もまたまた大嘘で終わる可能性は高いのですが、志は(?)高く持たない限り実現はしないのです。
書いてみたいことは山ほどあります。問題は時間です。
しかし、これも解決方法は頭では分かっているのです。
「書く」という作業のスタイルを、今までの「紙とペンのスタイル」から、「パソコンにふさわしいスタイル」に変えればいいのです。
紙とペンの時代は、書くべきテーマを明確にし、それを相手に伝えるためのもっとも効果的な構成をじっくり考えて、おおよそ頭の中で完成しなければ、最初の一文すら書き始めることはできませんでした。
これでは、ある程度まとまった時間がないと、駄文の一つもひねり出せません。
しかし、パソコンで文章を綴るときは、これとは全く違うスタイルがあることをようやく実感できるようになってきました。
もちろんテーマは大切ですが、思いついた内容をとにかく前後の関係を気にせずに、とりあえず文章にして入力しておきます。
そんな切れ切れの文章を後からまとめて再構成すればいいのです。これなら、まとまった時間がなくても文章は綴れます。
もちろん、頭では分かっていたのですが、数十年にわたって染み込んだ「紙とペンのスタイル」はそう簡単に抜け出せなかったのです。
ホームページを作り始めて一年、漸くにして変わりつつあるし、また変わらなければと思っています。
そういう意味では、この一文はそういう新しいスタイルで文章を作った記念すべき第一号。(?)
はたしてどんなものでしょうか?
モーツァルトの「ハフナー」をめぐって
きっかけは、セルが指揮したモーツァルトのハフナーである。
この第3楽章の最後の部分で、装飾音がカットされているのでは?との指摘があり、以下のようなメールを送ったのです。
スコアに関する事は、私などよりも詳しい方がおられると思いますので、そのうち誰かがレスしてくれるだろうと思っていました。
ところが残念ながら、どなたからも発言がないようです。問題がセルに関することとなると、なんだか「使命感」(?)のようなものを感じますので、一言報告しておきます。
言われている装飾音は、21小節目の1st.Vn.についているものだと思います。
ハフナーの第三楽章は、典型的な三部形式ですから、
- 第一部メヌエット1~24反復があります
- 第二部トリオ25~52反復があります
- 第三部第一部を再現(当然反復はありません)
となっています。
ですから問題の装飾音は、第一部で二回、最後に一回出てきます。
結論から言いますと、セルは装飾音を省略していません。(ちなみに確認に使ったのは、「CBSSONY32DC481」のCDです)
最初の二回も、最後の部分も、装飾音は省略していないように思います。
装飾音はこの箇所以外にも、5・26・30・46・50の各小節にもついていますが、すべて忠実に演奏しています。一般的にセルは、演奏効果をあげるために楽器や音符を追加することはあっても、音符を省略するような例はないのではと思います。
ただ、セルの録音はあまり良好とは言えず、解像度もあまりよくないので、確認しづらいとは思います。
以上です。
オケコンの終楽章のカットは有名な話し・・・トホホ!
ところが、こんな発言をした後、はたと思いついたのが、表題にしたバルトークのオケコン(管弦楽のための協奏曲)です。
「一般的にセルは、演奏効果をあげるために楽器や音符を追加することはあっても、音符を省略するような例はないのではと思います。」
うーん、馬鹿なことを書いてしまった。
オケコンの最終楽章では、思いっきりカットしてるではないか!
それも、セルファンでなくても知っているほど有名なカットだ。
「優れた演奏であることは認めるが、終楽章のカットがあるためにはベスト盤には押し切れない」とか、「終楽章のカットはあるものの、演奏のすばらしさを考えると無視するに忍びない」なんてな事を言われ続けてきた演奏です。
そんなわけで、馬鹿発言の罪滅ぼしもかねて、今回はオケコンのカットについて考えてみたいと思います。
どこをカットしてるの?
ここからは、ほとんどヘリテージシリーズの解説の受け売りです。
カットをしているのは最終楽章の426小節から555小節にわたる部分で、まさにばっさりという感じでカットしています。この部分は、解説のMichaelCharryによると、「バルトークらしい神秘的で美しい”nightmusic”」ということになります。
しかし、セルはここを単純にカットしているのではなく、この直前のフレーズの最初の小節(418小節)を4回繰りかえしてコーダのフィナーレへとつないでいます。言うなれば、一種のアレンジに近いような扱いです。
同時代の音楽としてのオケコン
ヘリテージシリーズの解説にはさらに興味深い記述があります。
ご存じのように、オケコンは貧窮に喘ぐバルトークを助けるべく、クーセヴィツキーが作曲を依頼したものです。初演は44年の12月1日、クーセヴィツキー指揮のボストン交響楽団によってなされています。
セルはこの初演には立ち会わなかったようです。なぜなら、前月の29日には「ドン・ジョヴァンニ」、そして12月2日には「ワルキューレ」の指揮をメトで行っているからです。
話はそれますがこの部分を読んで、二つの感慨を抱きました。
第一は、うーん、聞いてみたかった!という全くのミーハー感想。
第二は、ナチス相手に戦争しているときに、モーツァルトはまだ分かるとしても、何の疑問もなくワーグナーを上演していたアメリカという国はすごいという感想。これこそは、真の大国が持っている寛容の精神というものです。最近のアメリカは次第にこの寛容の精神を失いつつありますが、それは「衰えへのステップ」に踏み出したことを意味しているのでしょうか。
ユーゴへの空爆など、最近のアメリカの行動をみていると、戦争のさなかにワルキューレを演奏していた国とは思えないほどの偏狭さをさらけ出しています。
話を元に戻しましょう。
忙しかったセルは初演には立ち会っていませんが、おそらくはその一ヶ月後にニューヨークで行われた同じメンバーによる初演は聞いたようです。ニューヨークはクリーブランドに招かれるまでの5年間を過ごした町です。
そして、その演奏会から3日後、2週間にわたるボストンでの客演指揮を引き受けていますから、そのときにバルトークのスコアは間違いなくみているはずです。
そして、ここからが肝心なところですが、翌年一月にはニューヨークとクリーヴランドでの客演でオケコンを取り上げ、そこではすでに録音で聞けるようなカット(アレンジ)をしているようなのです。
そして、友人からカットの理由を聞かれたセルは、明確に「弱点の改善」だと答えています。それも、バルトークが本当は改善したかったように改めてやったので、それこそが正しいというスタンスをとっていたようです。
セルがガチガチの原典尊重主義者だという誤解
さすがはセルだ。この言い方は心底すごいと思いながら、ふとこんな疑問が浮かび上がりました。
「もし、R.シュトラウスの作品で、同様の弱点を感じたなら、セルはバルトークと同じようにアレンジをして、『弱点の改善をしてやった』と言っただろうか?」
おそらく、答えは『NO!』でしょうね。
セルにとって、R.シュトラウスは『神』です。神に向かってそんな不遜な態度をとることなど思いも寄らなかったでしょう。
しかし、バルトークは神ではありません。もちろん能力とその作品は認めてはいたでしょうが、「神聖にして侵すべからず存在」ではなかったはずです。
両者の関係は五分と五分。演奏家サイドが不都合を感じればクレームを付けるのは当然です。
ただ、残念ながら日月をおかず、バルトークは貧窮の中で亡くなってしまいました。
バルトークがその後も元気に活躍を続けていたなら、セルのアレンジを聞いて何と言ったのかは興味のあるところです。しかし、「論外の暴挙」等とは言わなかったように思います。
なぜなら、最初のスコアで演奏をしてみて、いろいろと不都合が目に付いたり、構成上の弱さが露見して大幅にスコアに手に入れると言うことはよくあることです。
逆に言えば、同時代の音楽と言うのは作曲家サイドと演奏家サイドが、そのように作品を絶対化することなく、相互に主張をぶつけ合って磨かれていくものです。
セルがほどこした終楽章の大幅なカットとアレンジは、言葉を変えれば、セルにとってオケコンはまがう事なき同時代の音楽であったことの証左でもあります。
上記のCDで聞ける演奏は65年のものですから初演から20年の歳月が流れています。
この20年の歳月はオケコンを「現在音楽」から「偉大なバルトークを代表する現在の古典音楽」へと変貌させました。しかし、セルは最後までこの作品を「私たちの時代を語る同時代の音楽」というスタンスを崩さなかったようです。
彼は頑固なまでにバルトークとの五分の関係を維持して、自分の信じるやり方でこの作品を再創造しました。
そういう意味で、セルのカットが決してバルトークへの冒涜ではなく、作曲家と演奏家が持ち得た幸福な関係の最後の残照であったと考えます。
同時代性を失ったクラシック音楽の不幸
そしてつくづくと思うのは、いろんなところでしつこく書いているのですが、クラシック音楽が同時代性を失ってしまったことの「不幸」です。愚にもつかない「原点尊重」が幅を利かせる遠因がここにあることは明白です。
よく、『原典を尊重し、作曲家の意図に忠実な演奏』、などと言うことがよく言われます。
こういう文章を読むたびに、「あほかいな!」と呟くのです。
だいたいが何十年も、何百年も前に死んだ作曲家の作品が、本当に「意図どおりに演奏」されているのかどうして分かるのでしょう。
おまえがあの世に言って話を聞いて帰ってきたのか、恐山のイタコにでも聞いてもらったのでしょうか?
正確に書けば、作曲家の意図に忠実だと「私が考える」演奏・・・と言うべきでしょう。
だからそこで問われるのは、あくまでも「私の考え」の正当性であるはずなのに、作曲家の仮面の後ろに隠れて出てこようともしない態度は、あまりにも姑息だと言わなければならないのです。
同様にセルのカットとアレンジも、決してカットとアレンジ自体に問題があるのではなく、重要なのはそのカットとアレンジの正当性です。
中身を何ら検証することなく、「カットがあるからダメ!」ですますなら、これまた愚にもつかない原典尊重主義だと言わなければなりません。そして、そんな主張が無批判でまかり通る現在の状況もまた、「不幸」だと言わねばなりません。