セルの海賊盤の存在意義を糾す。
2001年3月4日追加
なんとも挑戦的なタイトルをつけてしまいました。(^^;;
昨年はセルの没後30年という節目の年でもあったためでしょうか、セルの海賊盤がずいぶんとたくさん出回りました。
セルという人は他の指揮者連中と比べると海賊盤が際だって少ない人でした。たくさん出回ったといっても、この数年に出回った海賊盤の数はチェリやクライバーなどの「海賊盤の大家(?)」と比べれば微々たる物です。
しかし、セルとしてみればまさに「画期的」と言えるほどの枚数だったのです。
この辺が微妙なところで、全てを購入するのは断念するしかないほどの枚数なら「セレクト」というバイアスがかかるのですが、「全てを購入するのは決して不可能ではない」というレベルだと、結局は無理をしてでも全て買ってしまうことになります。
これは対象への愛情と経済的制約という二つの変数が折り合うところに「解」が存在するわけですから、今回程度の枚数なら「全てを買っちゃう」という「解」になるわけです。
おまけに、例の東京ライブのように海賊盤が先行発売(?)されて、それから正規盤でリリースされたりすると同じ物を2回も買う羽目になって出費はさらにかさんでしまいます。こんな状態ではいくらお金があっても足りません。
しかし、「セルのライブ録音は基本的に無用の存在」だと考えています。
実は昨年、「ILLUMINATION」というレーベルからかなりまとまった録音がリリースされたときにも、ある方にメールで「セルに関してはライブ録音は基本的に無用だと思います」と断言していました。そう言っておきながら、それでも新しい録音が目に付くと買ってしまうのは悲しい性としか言いようがありません。
そんなわけで、この問題、セルのライブ録音の存在意義については一度きちんと書いておかなければ思いつつ、興味をひく目先のことにかまけているうちにずるずると先延ばしになってきました。しかし、最近になって、再びまとまった数の海賊盤が出回ってきましたのでそれをいい機会に考えをまとめておきたいと思います。
セルの録音スタイル
まず始めに、セルがどのようなスタイルでスタジオ録音を行っていたのかを確認しておく必要があります。
セルのスタジオ録音のパートナーとして中核を形成しているのは言うまでもなくクリーブランド管弦楽団であり、それ以外ではアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団やウィーンフィル、ベルリンフィル、ロンドン交響楽団、古いところではチェコフィルぐらいでしょうか。
ヨーロッパのオケとはどのようなスタイルで録音が行われたのかは分かりませんが、クリーブランドとの録音ならそのスタイルはいつも同じでした。
今でこそセル&クリーブランドの評価は絶大なものがありますが、当時はバーンスタイン&NYPやオーマンディ&フィラデルフィアの陰に隠れたセカンドグループの一つという位置づけでした。ですから、その録音環境は決して恵まれたものではなかったようです。
入念に何度もリハーサルを繰り返して、部分を完璧に仕上げてその集合体として一曲を仕上げるような時間的余裕と言うか、贅沢は許されませんでした。
もっとも、そう言うやり方にたいしてセルは批判的だったようです。
セル&クリーブランドのスタジオ録音は基本的に演奏会とセットで計画されました。
レコード会社から話が持ち込まれて、その申し出が興味をひくものならその作品を演奏会のプログラムに取り上げます。そして、その翌日に録音を行うというスタイルが一般的でした。
当然、演奏会の本番に向けて何度かリハーサルが行われるわけですから、完全に仕上がった状態で録音にのぞめるというわけです。
そう言えば、吉田秀和氏がどこかで、セル&クリーブランドを聞きにいって、ワーグナーの序曲ばかりを集めた中途半端なプログラムにがっかりしたことがあると書いていました。そして、おそらくワーグナーの序曲集でも録音する予定でもあるのだろうが、スタジオ録音のリハーサルにお金を払ってつきあわされた客こそいい面の皮だと怒っていました。
まさにこの指摘と怒りは大正解で、「録音の依頼」→「演奏会にかける」→「録音をする」というのが当時のセル&クリーブランドの基本スタイルだったのです。
そして、その録音スタイルも基本的にはライブと同じように通して演奏され、具合の悪いところがあれば修復のために何度かやり直すだけという極めてシンプルなものでした。ですから、作品によってはやり直しもなしで一発でOKというものもあったようです。
こうなると、客が入っているかどうかの違いだけで、基本的にはスタジオ録音と言ってもライブと何らかわることはありません。
セル自身もインタビューの中で次のように語っています。
「自分のオーケストラに感謝したいね。まるで生演奏のように収録がすすめられる。音楽を殺さぬようにレコーディングするにはこの方法しかないと思う。そうでなければ、録音なんて忌まわしいだけだよ。」
「我々はまず、作品を頭から終わりまで通す。その最初の一回で、十分に満足いく結果が得られることも珍しくない。ところどころ、音の間違いやバランス上の不備と言った小さな欠陥があれば、その修復作業にあたる。
つぎはぎ細工から着手することなどは、決してない。」
ライブ録音は出来損ないのスタジオ録音?
セル&クリーブランドにおいては、演奏会とスタジオ録音で全くコンセプトが異なるなどと言うことはあり得ません。
それどころか、ライブでは避けられない小さな傷が録音技術によって修復が可能なだけ、スタジオ録音の方がより理想的な演奏だと言うことができます。
どこかで、「セルはリハーサルではぎりぎりと締め上げておいて実演で爆発させた」、と語っている人がいましたが、何を馬鹿なことを言っているんだと笑ってしまいました。確か、VOPとの69年のザルツブルグライブを評してのことだったと思いますが、たった一枚のライブ録音を聞いてこんな決め付けをしてしまう度胸には恐れ入ってしまいます。
多くの海賊盤を聞いて確信したのは、スタジオ録音とライブ録音との驚くほどの均質性です。
ライブとスタジオ録音でこれほど落差の少ない人は珍しいのではないでしょうか。そして、セルに海賊盤が驚くほど少なかったのも、ここに最大の要因があったのだと思います。
つまり、セルのライブ録音というのは、スタジオ録音なら当然修復されていたであろう「細部の傷」が放置されたままの録音だと言えるからです。
もっと分かりやすく言えば、セルのライブ録音は基本的には出来損ないのスタジオ録音です。
もちろん、ライブにはライブ特有の盛り上がりがあり、一部には「おや!」と思えるほどの熱さを感じるものもあります。しかし、それは決してセルが理想とするような造形でなかったことも事実です。
もし、それが理想と思うならスタジオ録音でも同じようにやって見せたことでしょう。それができないコンビではありません。
セルが理想とする作品の姿はスタジオ録音の中にこそ存在します。
そこまで言うなら、何も財布に無理をさせてまで(?)、海賊盤を買いあさる必要はないだろうと言われそうです。
答えは「その通り、買いあさる必要は全くありません。」
しかし、そう言う愚かさを自己弁護させてもらえるなら、いくつかの存在意義は指摘できるかもしれません。
まず第一に、
スタジオ録音を残さなかった作品をセル&クリーブランドで聞くことができることです。
でも、これは数は多くはありません。マーラーの9番や大地の歌、モーツァルトのレクイエム、シベリウスの2番等です。あと、細かいものはいくつかありますが、数の少ないのが残念です。
こういう録音ならスタジオ録音は存在しないのですから、出来損ないのスタジオ録音!という悪口も避けて通れます。めぼしいところでは、ブルックナーの9番なんかは確実に埋もれていると思うのですが、どうせ出すならスタジオ録音とだぶらないようにリリースしてほしいものです。(おいおい、海賊盤に注文なんか出すな!ちゅうの)
第二に、
クリーブランド以外との他流試合が聞けるという点です。
これは、一連のザルツブルグライブや、最近ではフィルハーモニア管とのベートーベンの第9等の興味深い演奏が聴けます。
特に「セルのオペラを聞きたい」となるとここに頼るしかありません。ザルツブルグライブのモーツァルトの魔笛などは本当に貴重です。
他に、メトロポリンタ歌劇場で指揮をしたワーグナーのオペラなどもあるようですが、悲しいことに未聴です。ワルキューレは2万円もするので注文を出すかどうか迷っています。とりあえず、タンホイザーの方は4000円ちょっとだったので、これで音質などをチェックしてから注文しようと言うせこいことを考えています。(その後、こういう録音も全て買い込むことになりました。)
また、昨年すっかり有名となったVPOとの69年のザルツブルグライブなどのように、手兵のクリーブランドとは違った面もかいま見られてライブ録音の中ではもっとも存在意義があるかもしれません。
ただ、注意しないといけないのは、このような他流試合についてセルが次のように語っていることです。
「限られた時間のうちに、ある種のスタイルや演奏法を実践させようとするのは一筋縄ではいかないことだ。初対面のヨーロッパのオケなどは最初のリハーサルで集団的ショック状態に陥ることがある」
(^^;うーん、恐ろしい。
さらに別のところでも、次のように明確に語っています。
「一つ申し上げたいのは、クリーブランド管弦楽団をさしおいて録音したくなるオーケストラなど皆無だと言うことだ。これは何も贔屓目でも何でもない。
なぜなら、私はウィーンフィルやベルリンフィル、ロンドン交響楽団、そしてコンセルトヘボウ管と録音をしてきた。その上で、自分が理想とするレコーディングにもっとも適しているのがどこかと言えば、クリーブランドだと答える」
つまり、セルの理想はあくまでもクリーブランドとのスタジオ録音の中にこそあり、他流試合のライブ録音に多少の目新しさや面白さを感じたとしても、それらはセルそのもの理解や評価には何の影響も与えないものだと言うことです。
そして、最後に、あげられる存在意義は
とにかくセルに関するものならとりあえずは身近においておきたい!というファン心理の満足です。
スタジオ録音の存在するクリーブランドとのライブ録音などは、基本的かつ原則的にはほとんどこれ以外に存在意義はありません。もちろん、ライブの海賊盤のほうが好き!と言う人もいるでしょうし、否定はしませんが・・・。
確かに、モーツァルトの41番、ベートーベンの3番、ブラームスのピアノコンチェルトなど、多少は興味をひく演奏もありますが、スタジオ録音が存在する以上、それらの作品の演奏としてはまずスタジオ録音をとるべきです。
実際、スタジオ録音の存在意義を吹き飛ばしてしまうようなライブ録音は未だかつて聞いたことがありません。
実に馬鹿馬鹿しい存在意義ですが、この馬鹿馬鹿しさを馬鹿馬鹿しいと言って切って捨てることができないのがファン心理というものです。ある意味では、これこそがセルのライブ録音の最大の存在意義かもしれません。(^^;情けない!
しかし、考えてみればその様な海賊盤などは本来存在すべきでないものであり、そんなものが不埒にも存在するがゆえに乏しい財布の中味がさらに乏しくなるとすれば、実に馬鹿げた話です。
しかし、馬鹿げていると分かっていても、目の前に人参をぶら下げられれば走り出してしまうのが、しつこく何度も繰り返しますがファン心理の悲しさです。
てな事を書いているうちに、またまたアリアCDからカタログが届きました。
中を覗いてみると、またまたセルのライブ録音のCDがのっています。
オーパス蔵からはフーベルマンとのベートーベンが復刻されるそうです。ここの復刻技術は折り紙付きですから、どのような音でよみがえっているのか聞かねばなりません。
馬鹿げていると思いながら、それらのCDを注文をするためにキイボードを叩いているユング君がいます。
これほど言っていることとやっていることに落差がある人も珍しいですね。笑ってやってください。(^^;;
その昔、東京の某雑居ビルに、海賊盤LPの専門店がありました。
カラヤンの禿山の一夜だってカルロス・クライバーのブルックナーも、この店に無いものは無いのです。
客が「こういうライヴ盤は無いですか?」と言うと「探してみます」と答えた翌日には入荷しているのです。
どうもインチキ臭いと話題になった頃、警察の手入れが入り、ほどなくして店は消えました。
何のことは無い、輸入盤LPのラベルの上からタイプライターで印字した白ラベルを貼っていたのです。
私が買った海賊盤もラベルを剥がすとまったく別の指揮者の演奏でした。
高い授業料でしたが、夢を買ったと思って納得することにしました。
そんな訳ですから、輸入盤だからと言って本当にその人の演奏かどうか分かったもんじゃありません。
セルのライブ録音の意義は確かにあると思います。
もちろん、スタジオ録音と重複している場合はスタジオ録音重視です。
ライブ録音しか残さなかった音源は、ある意味貴重ですね。
もちろん、コンサートで演奏していても音源の残っていないレパートリーも
あるでしょうから、それが一番残念です。
セルが残した音源は全部聴きたい。
今の正直な感想です。