シューリヒト&ウィーンフィルによるブルックナーの9番~怖い演奏

今さら何の説明も不要なほどの「歴史的名盤」です。
どれくらい名盤かというと、「魂がこもりきり、宇宙が鳴動するような(^^;演奏」と言うことになっているのですが、さすがにパブリックドメインの仲間入りをするほどに年月を経るといろいろな意見が出てきます。

ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調
カール・シューリヒト指揮 ウィーンフィル 1961年録音

曰く、「素っ気なさすぎる」、曰く「枯れすぎ!!」、曰く「響きが薄すぎて聞いていられない!」などなです。
果ては「オケが下手すぎ!」と言うウィーンフィルに対する恐れを知らない批判なども散見します。

Schurichtさすがに、「オケが下手すぎ」という意見に対しては同意しかねます。最近のオケはスコアを正確に音に変換する機能ならば大幅に向上しましたが、それだけで全てが尽くせるほどにオーケストラというのは単純なシステムではありません。
しかし、それ以外の感想にはそれなりに同意できる部分はあります。

ブルックナーという作曲家はドイツ語圏ではそれなりに高く評価されてきましたが、それ以外の地では「なんだか訳の分からない音楽」というのが通り相場でした。そして、そう言う率直な意見をドイツ語圏の人間にぶつけると、思いっきりの上から目線で「君たちが理解できるのはベートーベンやブラームス止まりでブルックナーが分かるにはほど遠い」などと言われたそうです。
かの吉田大明神でさえ、若い頃にはじめてブルックナーを聞いたとき、あまりに単調な音型が繰り返されるスケルツォに眠りこけてしまい、再び目が覚めたときにも同じ音型が延々と繰り返されていて「すっかり恐れ入った」みたい事を書いていました。

そんなブルックナーが広く受け入れられるようになったのはCDという記録媒体が登場したからでした。
事情はマーラーも同様で、記録できる時間やダイナミックレンジの広さというCDの器の大きさが彼らのシンフォニーにぴったりだったのです。さらに言えば、それらの作品のクライマックスで鳴り響く「ぶっちゃきサウンド」は、世のオーディオマニアが自慢のシステムの威力を誇示するにはもってこいだったのです。

結果として、CDの時代になるとそれまでは考えられなかったほど多くの録音が世にあふれるようになりました。
もちろん、それらのクオリティは様々でしたが、裾野が広くなれば頂上が高くなるのは世の習いで、結果として私たちは多くのすぐれた録音を持つことができるようになりました。
ヴァント、ヨッフム、ジュリーニ、そして好き嫌いはあるでしょうがカラヤン、バーンスタインなどなど・・・。

そして、それらの多様性あふれるブルックナー像をすでにもってしまった今の時代にあって、このシューリヒト盤こそを絶対無二の名盤として持ち上げる人がいれば「それは違うだろう」と言いたくなるのは当然のことです。
しかし、そういう流れの中で、このシューリヒト盤を過去の遺物のように決めつけて切って捨ててしまうスタンスにも同意しかねるのです。

歴史とは、ヘーゲルが喝破したように決して「阿呆の画廊」ではありません。
歴史とは、現在という到達点から見て様々な不十分さや誤りを含んだ「阿呆」どもの陳列物ではありません。そうではなくて、ヘーゲル流に言えば「真理」へと至る過程、もしくは「真理」が顕現していく過程として個々の出来事を認識し、その認識をもとに個々の出来事を結びつけて記述していくことこそが歴史なのです。
そして、それは、哲学史だけに適用される話ではなくて、演奏の歴史においても同様です。

60年代初頭に、シューリヒトとウィーンフィルという黄金の組み合わせで録音された一連のブルックナー演奏は、この時代におけるブルックナー理解の一つの到達点を示しています。もちろん、それは後の虫眼鏡でスコアの隅々まで点検した上で、そのディテールをくっきりと描き出し積み上げたようなブルックナー演奏とは全く異なります。
しかし、だからといって、そのような緻密さが欠如しているから無意味だとか、過去の遺物だと切り捨ててしまえば、あまりにも多くのことを私たちは失ってしまいます。

この時代の演奏の特徴を一言で言ってしまえば、作品そのものよりも演奏家の個性が色濃く反映していたことです。もちろん、世は原典尊重の即物主義の時代になっていたので、昔のように平気でスコアを改竄して不思議に思わないロマン主義的歪曲は過去の話とはなっていました。しかし、スコアを大切にしながらも、大切なのはそれを精緻に「音」に変換することではなくて、「音楽」として表現することこそが大切だとされていたのです。
シューリヒトという人は、とりわけそのような特徴を色濃く持った人でした。彼の手にかかると、ベートーベンでもブラームスでも、そしてブルックナーにおいても最後はシューリヒトの色に染まった音楽になってしまいました。

つまりは、指揮者の個性が色濃く刻印されているが故に、シューリヒトの演奏に絶対無二的なものを感じるのは当然なのです。さらには、困ったことに、返す刀で今日の精緻を極めたブルックナー演奏を否定する人も生まれてもくるのです。
しかし、そう言うスタンスは、主張していることは真逆のように見えて、シューリヒト盤を過去の遺物のように決めつけている人たちのネガでしかないことに気づくべきです。

大切なのは、スポーツ競技のように無邪気な一番争い(名盤探し)をすることではなくて、個々の演奏を歴史のなかに置いて、そのつながりのなかで新しい時代の演奏が何にチャレンジしたかを正当に評価していくととです。

その後の演奏の歴史を振り返ってみれば、演奏する側の個性みたいなものよりは、スコアを徹底的に分析して、その分析した結果を緻密に再現することが重視されるように時代が変わっていったことは明らかです。
そして、そのような方向性が決して間違っていなかったことはヴァントやジュリーニの演奏などを聴けば容易に納得できますから、今となってはシューリヒトのような演奏スタイルに先祖返りすることは考えにくいのです。
現在のブルックナー演奏はシューリヒトの時代にはなかった雄大な響きと美しさをもっていることは否定しようのない事実です。

ただ、一言弁護すれば、ここに刻印されたシューリヒトの個性はかなり強烈です。表面的には素っ気なさすぎて枯れすぎた音楽に思えるかもしれません。
しかし、この作品に内包された「怖さ」がこれほどまでに聞き手に迫ってくる演奏は他に思い当たりません。とにかく、聞いていると、心臓にグサリと刺さってくるような「怖い」場面があちこちに存在するのです。そして、それは徹底的にスコアを分析し、その結果をどれほど緻密に分析しても再現できない類のものなのです。

それ故に、落ち込んだときに夜中に一人で聞いてはいけない最右翼の一枚が、このシューリヒトのブル9だと言われるのです。そして、おそらくその「怖さ」こそが、シューリヒトがこの作品のなかに見いだした「真実」であり、その「真実」の姿を表現すべく極限にまでチャレンジしたのがこの演奏だったのでしょう。
つまりは、時代を超えて聴き継がれる演奏というのは、それぞれの時代を代表するチャレンジに成功した演奏だけだということです。