音像重視の録音~展覧会の絵 ライナー指揮 シカゴ交響楽団 1957年12月7日録音

ネット上を散見していてどうにも分からないと思うことの一つに、50~60年代の古い録音を俎上に上げて、その演奏の素晴らしさを褒め讃えながらも、最後に「録音の古さが残念です」と付け加えている人が多いことです。いや、ネット上の書き込みだけでなく、いわゆる評論家といわれる方々の批評の中にもよく見る言い回しです。

確かに、その録音が50年代前半であればモノラル録音であることが一般的ですから、その「モノラル」ゆえに「録音が古い」と切って捨てる人がいたとしても、同意はしませんが分からないでもありません。
しかし、50年代後半以降の、既に録音のフォーマットがモノラルからステレオに完全に移行し、その新しいフォーマットに対する技術的な蓄積も十分となった時代の録音に対しても、「録音が古いのが残念だ」とコメントしていることが多いのは不可思議と言うしかありません。

私のように古い録音をメインで聞いているものにとっては、60年代の録音などは「最新録音」の範疇です。(^^;
しかしながら、世間一般の受け取り方としては「半世紀以上も前の録音」でしょうから、そんな古い時代の録音はいいはずがないというバイアスが最初からかかっているのかもしれません。

さらに言えば、いわゆる「最新」と言われる昨今の録音の傾向を前提にするならば、「録音の良し悪し」の基準が今と昔では大きく変わってきている事もそう言う評価を生み出す要因になっているのかもしれません。
すべてを一纏めにするのは乱暴にすぎると思うのですが、最近の録音の大きな流れは「音場感」優先です。
響きを薄めにして透明感を高め、結果として空間の広がりを優先する音づくりです。

そして、こういう傾向の「音」が「よい録音」の基準となるならば、確かに50~60年代の録音は「古い」と切って捨てられても仕方がないのかもしれません。
もちろん、同意はしませんが。(^^;

そもそも、その時代においては「音場感」という概念はなかったはずです。
かわりに、重視されたのは「音像感」でした。

何よりも大切だったのは、まさに目の前において実際の楽器が鳴り響いているかのようなリアル感でした。
そして、この「リアル感」に関してはモノラルというフォーマットはステレオというフォーマットよりも優れていました。
2本のスピーカーから放たれた音を、空間の一点においてリアルな音像として一致させる事は、1本のスピーカーから放たれた音によって「リアル感」を感じとらせるよりもはるかに難しいからです。

しかし、そう言う難しさを内包しながらも、ステレオ録音がモノラル録音を駆逐してしまったのは、そう言う楽器の舞台上におけるレイアウトを「リアル」に再現できたからでした。

このレイアウトは、最初は左右という1次元的な表現にすぎなかったものが、やがて高さと奥行きという情報も加味された3次元的な概念に発展していくことで、ただの「レイアウト」にしかすぎなかったものが「音場」へと発展していったのです。
そして、この「音場」という概念もまた「音像」とは異なるもう一つの「リアル」でした。
好意的に解釈すれば、新しい録音の多くはその様な「音場感」こそを大切にした音づくりが為されているのです。

こういう音づくりの変化の背景には、もしかしたら音楽を聞く環境の変化があるのかもしれません。
私は全く使わないのでいささか無責任な発言になるのですが、こういうふわふわとした音づくりはヘッドフォンで音楽を聞く人にとってはジャストフィットの音づくりなのかもしれません。
しかし、目の前に2本のスピーカーを据えて聞いているものにとっては、そう言うふわふわとした音づくりは何とも言えず頼りなく感じてしまいます。

ですから、願わくば、そう言う「音場感」優先の、薄めで透明感にあふれた音だけが「良い録音」という決めつけをしないでほしいと思うのです。
一般的に「音像感」と「音場感」というのはバーター関係にあり、最近は「音場感」の方が重視される傾向にあることは事実ですが、それだけがすべてではないのです。

ムソソルグスキー:展覧会の絵(ラヴェル編曲) ライナー指揮 シカゴ交響楽団 1957年12月7日録音(Living Stereo 60CD Collection:CD9)

きわめて鮮烈な音が収録されています。
さすがにこのルイス・レイトンによる録音を「古い」と切って捨てている人は見たことはないのですが、まあ、話を分かりやすくするために取り上げてみました。

冒頭のトランペットのソロは、シカゴ響のトランペット首席奏者として半世紀以上も君臨した「アドルフ・ハーセス」が吹いているのですが、その響きの生々しさは素晴らしいの一言です。

もちろん、生々しく捉えられているのはトランペットだけではなく、入れ替わり立ち替わり登場する様々な管楽器の響きはすべて申し分なく、ティンパニーや小太鼓、トライアングルの響きなども見事なものです。
ここに傾注されているのは、「Hi-Fi」という用語で表現された「原音再生」へのチャレンジでした。

もちろん、「Hi-Fi」という用語は基本的には「マーケティング用語」だったわけですが、それでも、この時代は、録音する側もそれを再生する側も、その言葉を正面から受け止めてそれを現実のものとするために努力と献身を厭わなかったのです。

しかしながら、そう言う一つ一つの楽器の生々しさは申し分はないのですが、最近の録音と較べてみると少しばかり違和感を感じることも事実です。
その違和感とは何かと考えてみると、そう言うリアルに表現された楽器が左右のスピーカを結んだ一本のライン上に書き割りのように行儀よく並んでいるという不自然さに気づくのです。
そこにでは、弦楽器も管楽器も打楽器も、すべて同じ一本のライン上に並んでいるだけで、奥行きもなければ高さもありません。

つまりは、この時代のステレオ感とはこのような左右への広がりだけであって、そこにはオーケストラが鳴り響いている空間の情報、つまりは「音場感」はほぼ欠落しているのです。
しかし、それを欠落していると感じるのは、そう言う情報をふんだんに含んだ録音を既に数多く聞いているからであって、当時としてはこれでなんの問題もなかったはずなのです。

それ故に、ここで問題が起こります。
既に豊富な「音場感」を含んだ録音を聞いている耳からすれば、こういう「音像」重視の録音に対して、「音場」に関する情報が大幅に欠落しているために「録音が古い」と切って捨てしまう過ちを犯す可能性があるのです。

しかし、これを「録音が古い」といってしまうと、これに肩を並べられるだけの響きのリアリティをもった録音はそれほど数は多くはないのですから、そう言う録音は「ゴミ」レベルといわざるを得なくなります。
もちろん、最初にも述べたように、これほどの優秀録音になれば、これを「録音が古い」と切って捨てる人はいないのですが、ここまでの音像のリアルをもたない同時代の他の録音ならばそう言う切り捨て御免はあちこちで見かけます。

そして、これはあくまでも個人的な好みではあるのですが、私が何よりも音楽再生に求めるのは、演奏家がその演奏に込めたであろう気迫のようなものを感じ取れることです。
それ故に、昨今の「音場感」優勢のふわふわとした響きはどうにも好きにはなれないのです。

とは言え、そう言うふわふわとした響きが好きな人がいてもそれは当然のことであって(オーディオ評論家としては傅信幸氏などはその典型でしょう)、それは全く否定する気はありません。
ただし、そう言う好みだけを優先して、こういう一昔前の音像重視の録音に対して「録音が古い」という駄目出しをするのならば、それは決して同意は出来ないということだけを言いたいのです。