バルビローリ指揮ベルリンフィルによるマーラーの9番が「BEST OF THE BUNCH(最優秀録音)」にリストアップされていたのも意外だったのですが、このクレンペラーによるマーラー録音が「SPECIAL MERIT(優秀録音)」にリストアップされているのも意外でした。
マーラー:交響曲第4番 クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団 (S)エリーザベト・シュヴァルツコップ 1961年4月録音
ちなみに、マーラー作品で「SPECIAL MERIT」にリストアップされているのは以下の8枚です。
- Mahler. Das Lied von der Erde/Bernstein, Fischer-Dieskau, King. London OS-26005
- Mahler. Das Lied von der Erde/Klemperer, Wunderlich, Ludwig, New Philharmonia. HMV SAN 179
- Mahler: Des Knaben Wunderhorn/Schwarzkopf, Fischer-Dieskau, Szell, LSO. EMI ASD 1000981
- Mahler: Symphony No. 1/Slatkin. Telarc DG-10066
- Mahler: Symphony No. 2 Abravanel, Utah SO. Vanguard VCS 10003
- Mahler: Symphony No. 3/Mehta. Decca/Analogue Productions AAPC 117
- Mahler: Symphony No. 4/Klemperer. EMI ASD 2799
- Mahler: Symphony No. 5/Barbirolli, Baker, New Philharmonia. EMI SLS 785
マーラーのような巨大編成の交響曲というのはオーディオ的なおいしさに溢れていますから、「BEST OF THE BUNCH」に1点、「SPECIAL MERIT」に8点がリストアップされているのは決して多すぎる数ではないと思うのですが、その中でバルビローリとクレンペラーの録音が2点ずつリストアップされているのは、いささか意外な感がします。
言うまでもないことですが、この2人の録音を行ったのはEMIです。
そして、これにセルによる「子供の不思議な角笛(EMI ASD 1000981)」を加えれば、全9点中の5点、つまりは過半数がEMI録音だと言うことになります。
マーラーの優秀録音と言えば何となく「Decca」というイメージがあるのですが、「Decca」録音でリストアップされているのはバーンスタイン指揮、ウィーンフィルによる「大地の歌(London OS-26005)」とメータ指揮、ロス・フィルによる「第3番(Analogue Productions AAPC 117)」の2点だけです。ショルティが残したマーラー録音などは随分と優秀だというイメージがあるのですが、何故か一つもリストアップされていません。
また、一部の評論家の強力な「推し」によって話題になっている、Columbia録音のワルター指揮、コロンビア響による1番も全く無視です。そして、もう一つの優秀録音の旗手であるRCA録音も一つもリストアップされていません。RCA録音で言えば、ラインスドルフ指揮、ボストン響の1番や3番などもかなりの優秀録音だと思うのですが、それもまた無視なのです。
率直に言って、このクレンペラーによるマーラー録音が、それらの録音と較べて差別化できるほどの優秀さがあるのかと問われれば「Yes」と言い切る自信はありません。何しろ、この録音を初めて聞いたときに、この録音がその他数多くのマーラー録音の中でも群を抜いた優秀録音だと感じた記憶は全くないのです。
そして、それは同じく2点がリストアップされているバルビローリの録音にも共通していえることです。
それらの録音は、私たちがマーラーの優秀録音と言うことで真っ先に思い浮かべてしまうような特徴、例えば、音響の一大饗宴とでも言うような場面はどちらかと言えば希薄だからです。ですから、その優秀さというのは、ハリー・ピアソンから「優秀だよ!」と指摘されて、あらためて聞き直してみることで「なるほど、そう言うことか」と気づくというような類のものなのです。
ただし、その「なるほど、そう言うことか」と気づかされる優秀さが、それ以外の録音と較べて差別化できるほどの高みを持っているのかと問われれば、それもまた自信を持って「Yes」と言いきれない辺りが困ってしまうのです。
それでは、あらためて聞き直してみて何が「なるほど、そう言うことか」だったのかと言えば、それはこの上もなく深い「音場表現」だと言うことに尽きます。
例えば、冒頭部分で鈴とフルート(Flute1,2)が鳴り響くと、それをバックに分割されたフルート(Flute3,4)が歌い出し、そこにクラリネットが加わります。そして、それをファースト・ヴァイオリンが受け継ぐと、そこにセカンド・ヴィオリンとヴィオラが参加して響きに厚みを加えます。
さらに、それをクラリネットとフルートが短い経過句で受けると低弦楽器が深々とした響きでそれを引き継いでいきます。
おそらく時間にすれば30秒にも満たないやり取りですが、その短い時間の中でオーケストラが鳴り響く広い空間が見事に呈示されます。そして、その広い音響空間の中にそれぞれの楽器が実体感を持って見事に定位しているのです。
特に感じるのが音場が深いという感覚です。マーラーの巨大編成に相応しい前後の空間がたっぷりと表現されているのです。
しかしながら、それがマーラーの音楽にとって相応しいのかと言えば疑問がないわけではありません。
マーラーの特徴の一つは、一つの楽器が一つの旋律をすべて受け持つと言うことは殆どないと言うことです。
何故ならば、マーラーにとってのオーケストラというのは複数の楽器が寄り集まった集合体ではなくて、オーケストラが単独の楽器であるかのよう有機的に機能するからです。ですからオーケストラはその持てる多彩な音色と響きでもって一つの旋律を歌うのであって、意識としては一つの旋律を複数の楽器が引き継いでいくという意識ではなかったと思われるのです。
ですから、この深い音場表現の中で一つ一つの楽器が鮮やかに定位して混濁しないというのは、果たしてマーラーの音楽にとって相応しいのかと言う疑問がわき起こってくるのです。
ただし、そう言う音の作りは、マーラー作品を古典派の交響曲であるかのように料理して提供しようとしたクレンペラーはの流儀を応援している事は確かです。
この録音の深い音場表現と鮮やかな楽器の定位は、クレンペラーが古典的明晰さでもってこの交響曲を再構築しようとした意図を見事にサポートしているのです。これが、もしも単純にに左右に広がるだけの2次元的な表現に留まっているならば、その様なクレンペラーの意図は聞き手には届かなかったでしょう。
しかしながら、その様なクレンペラーの流儀は、煩雑とも言えるマーラーの指示をできる限り忠実に実行することが「常識」となっている今の時代にあっては、あまりにもマーラーが指示した曲線路を無視していると批判されてきました。それだけに、これをどのように評価すべきかはいろいろと難しい問題をはらんでいるとはいえます。
それから、これは蛇足になるかもしれませんが、そう言う音場表現を優先するあまり、肝心のオケの響きが薄くなるような愚には陥っていないことは指摘しておかなければいけないでしょう。
言うまでもないことですが、60年代の録音にとって重要なことは「音像」であり、「音場」などと言う概念は録音する側にも存在していない時代でした。ですから、この時代の録音はどれをとっても腰の据わったどっしりとした、そして艶やかな楽器の質感を見事にとらえられていました。
そして、マーラーの巨大編成の威力が発揮される場面でも、例えば第3楽章のフィナーレなどでも音響が一切混濁することがないのも当然のことでした。
そこに加えて、後になってから気づいてみれば、そこに見事な音場表現も見事に実現されていたことに目をつけたのがハリー・ピアソンの慧眼だったのでしょう。
ただし、一つだけ不満を言わせてもらえば、最終楽章のシュヴァルツコップの歌唱が今ひとつ冴えないことです。
ここではメルヘン的な世界を期待したいのですが、なんだか学校の先生に叱られているような雰囲気すら漂ってしまうのです。
もっとも、それが録音の側に責任があるのか、シュヴァルツコップの側に責任があるのかは意見が分かれるかもしれません。
さらに言えば、その部分を十全に再現しきれていない私のシステムに問題があるのかもしれません。
私は、このクレンペラーのマーラーが優秀録音であるか否かについてはコレと言った賛否を表しようとは思いません。或いはコノ録音の音場表現がマーラーに相応しいか否かについても述べるだけの知識も能力もないと自覚するものです。更に言えば素人の”好み”の問題の範囲に絞って考えても、どうも目くじら立ててアレコレ言うだけの意欲に欠ける自覚もあるように思います(因みに、”好み”という点で言えば、私にとってはこの録音は”嫌いじゃない”録音には入りますが・・・・)。
ただ、本稿を読ませていただいていて「面白いな~」・・・と思ったのは、yungさんの次の一文でした。。
>マーラーにとってのオーケストラというのは複数の楽器が寄り集まった集合体ではなくて、オーケストラが単独の楽器であるかのよう有機的に機能する・・・
コノ記述は、”集合体”という言葉の意味、”有機的に機能”といった言葉の指し示すもの、etc. をどう定義・解釈するかによって、マーラーの音楽のもつ様々な側面との対応付けが可能なように思われ、正しいとか間違っているとか・・・といった議論の対象にするべきものではないのは私にとっても明らかなのですが、ただ、この認識はマーラーの音楽の(特にステレオ)録音の歴史的な認識の変遷を感じさせる言葉として私にはとても興味深いものでした。
マーラーの伝記に
「マーラー 未来の同時代者」 (K. ブラウコプフ著、酒田健一訳、白水社 1974)
という本があります。ドイツ語原書は1969年の刊行ですから、年代的にはちょうどバーンスタインが最初のマーラー全集(10番を除く)を完成させて、マーラーが世界のクラシック場面で前面に現れるようになった時期であり、続々とマーラー全集が企画・録音されるようになった時期の本ということができます。そういうこともあってか、本書には補遺として「エレクトロニクス時代の音響監督」という一文が添えられています。
その中で、著者はマーラーが如何に演奏会場の空間的・音響的特長にこだわり、明瞭さを求め各演奏会場の特性に合わせて自作の楽譜を煩雑に書き換えていたか・・・について述べた後に、次のように記しています。
<スタジオでのレコーディングは、マーラーの音楽をコンサートホールの特殊な音響条件のもたらすさまざまな危険から大幅に開放した。・・・・・・滅亡の危機に瀕する弦と支配権を独占する金管のとのあいだのまさに崩れようとするかに見えるバランスは、綿密に計算されたマイクロフォンの配置とミキサーの鋭敏な操作によって支えなおすことができる・・・・・反響する遠い音と明確な近い音とのコントラストをはばむいかなる障害もここにはない・・・・・マーラーの原典版演奏の時代は到来した・・・・・マーラーの音楽が必要とするあの操作された音響空間、すなわちコンサートホールではつねにただ部分的に、しかも多大の犠牲を払ってからくも達成されるあの人工的な明確さを、難なく作り出すからである・・・>
この見解を今読めば少々楽天的過ぎたのは明らかでもありますが、当時は極めて説得力に富んでいたのも事実であったように思います。マルチ・マイクは当然であり、マルチトラック録音による”鋭敏”なミキシング操作も、マーラーの録音にあっては必要不可欠のものと考えられていたように思われます。その後マーラーのワンポイント・マイク録音も出現したことなども考えれば、マーラーの音響学はそれほど単純でも一筋縄でもなかった訳ですが、TAS Super LP Listの選者の認識もyungさんの評も(そして勿論この録音に関わった関係者の認識も)、録音というものに対する認識・評価の歴史的な変遷・・・・ソレは当然音楽そのものの評価・認識に直結していますが・・・・を感じさせて興味深いものでした。