「TAS Super LP List」をパブリックドメインで検証する(23)~ドヴォルザーク:交響曲第8番 ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1961年2月8&12日録音

イギリスやアメリカの近現代の作曲家への偏重

「TAS Super LP List」の一覧を眺めていると、幾つかの「癖」というか、「傾向」のようなものが見えてきます。
その内の一つが、イギリスやアメリカの近現代の作曲家への偏重です。

クラシック音楽の歴史を眺めてみれば、イギリスは基本的に「消費」する国であり、アメリカに至っては完全に「後発」の国です。「TAS Super LP List」は「録音」に関わるリストですから、作曲家やその作品が音楽史にどのような位置を占めているのかは直接関係があるわけではありません。しかし、音楽史において大きな位置を占める作曲家の作品は録音される機会も多いわけですし、その録音にも大きなコストがかけられるのが一般的です。
つまりは、ビッグネームの作曲家の作品はそれだけ「優秀録音」に恵まれる機会が多いはずなのです。
しかしながら、そう言う一般論からこのリストを眺めてみれば、音楽史において周縁部に存在していると言われても仕方のないイギリスやアメリカの作曲家が多くリストアップされているのです。数え落としがあるかもしれませんが、複数の録音がリストアップされている作曲家は以下の通りです。

近現代のイギリスの作曲家

  1. マルコム・アーノルド(Malcolm Arnold):3
  2. ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten):6
  3. エドワード・エルガー( Edward Elgar):6
  4. グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst):3
  5. ジェラルド・フィンジ(Gerald Finzi):2
  6. レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams):5
  7. ウィリアム・ウォルトン(William Walton):6

近現代のアメリカの作曲家

  1. サミュエル・バーバー(Samuel Barber):4
  2. アーロン・コープランド(Aaron Copland):3
  3. ジョージ・クラム(George Crumb):3
  4. ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin):4

これ以外でも、全く不毛とされている19世紀のイギリス作曲界からウィリアム・ベネット(WilliamBennett)の作品が2点リストアップされているのも特徴的です。
「TAS Super LP List」ではクラシック音楽の優秀録音として350点近くをリストアップしているのですが(「Operas and Oratorios」は除く)、これだけで全体の15%を超えます。ここに、ルロイ・アンダーソン(Leroy Anderson)のように1点だけリストアップされているものもカウントしていけば、全体の20%近くになるのですから、それは「偏重」という言葉を与えてもいいレベルかと思われます。
それに対して、ビッグネームで言えばブルックナーやパガニーニは一つも取り上げられていませんし、ショパンとシューマンは1点だけ、シューベルトやリスト、メンデルスゾーンは2点です。特に、ブルックナーが1点も取り上げられていないというのは「何かの間違い」ではないかと何度も確認したのですが、どうやら「見間違い」ではないようです。ブルックナーの巨大な音響はオーディオの威力を誇示するにはもってこいですし、それに相応しい録音も数多くあるように思うのですが、それもまたハリー・ピアソンの好みのようなものが反映しているのかもしれません。

ただし、その事に異を唱えるつもりは全くありません。何故ならば、オーディオというものが「音」を聞くものではなくて「音楽」を聞くものだとするならば、いかに素晴らしい「音」が鳴り響く録音であったとしても、その「音楽」が自分の好みに合わなければ何の意味もないからです。そして、この「偏重」は、ハリー・ピアソンというオーディオ評論家が「音楽愛好者」としての「我が儘」を押し通した結果だと考えれば、それは素晴らしい「我が儘」だったと言わざるを得ないのです。

ブルーノ・ワルターへの愛情

ドヴォルザーク:交響曲第8番 ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1961年2月8&12日録音

そして、もう一つ気づくのが、特定の演奏家に対する愛情を隠そうとしないことです。ただし、こちらは上に挙げたほどの「偏重」ではないのですが、ハリー・ピアソンという人はこういう音楽が好きだったんだろうなと思わせる程度の偏りは指摘できそうな気がします。
その一つが、ブルーノ・ワルターへの愛情です。

ワルターという人は50年代の終わりから60年代の初めにかけて、Columbiaでまとまったステレオ録音を残しましたのでそれほど古い時代に属する指揮者だというイメージはありません。
しかし、モノラル録音時代の人というイメージのあるフルトヴェングラーや大クライバーよりもはるかに年長であり、メンゲルベルクなどと較べても数年若いだけなのです。ですから、彼が残した録音の大部分はモノラル録音であり、50年代終わりから開始したステレオ録音はすでに現役を引退した後に行われたものだったのです。
さらに言えば、その録音に使われた「コロンビア交響楽団」というオーケストラも臨時編成のオケであり、編成もそれほど大きくなかったと言われています。
つまりは、何が言いたいのかというと、そう言う状況下で録音された最晩年のステレオ録音は、巨匠ワルターの音楽がステレオで聴けるという「有難味」は否定しないものの、音楽的にも録音的にも不十分さが否めないというのが一般的な評価だったのです。とりわけ、録音的に言えば、その編成の小ささから響きの薄さが指摘されていて、その薄さを誤魔化すために電気的に弄っているのではないとかという「疑惑」も長く語られてきました。
ですから、そう言うワルター最晩年のColumbiaでの録音から数多くリストアップしたハリー・ピアソンはワルターへの強い愛情があったのだろうなと思うのです。

Bruno walter

しかし、そうしてリストアップされた録音を改めて聞きなおしてみると、それが言われるほどには「悪い録音」ではないどころか、「SPECIAL MERIT」に選ばれるほどの魅力を持っていたことに気づかされるのです。この背景にはこのワルターの録音は繰り返し再発売され、そしてその再発売のたびにレコードの質が悪化していったのではないかという疑惑があります。しかし、ここはそう言う経緯について考察する場ではないので、その辺りは取りあえずはスルーしておきましょう。
この録音の一番の魅力は、ワルターならではの古き良き時代のオーケストラの響きが見事にとらえられていることです。
よく言われることですが、ワルターの特長はどっしりとした低声部を土台とした響きです。それは、機能性を重視するために、小回りのきかない低声部の響きを薄くする昨今の行き方とは正反対です。もちろん、どちらがいいという話ではないのですが、それでもワルターがつくり出す響きは、今となってはほとんど聞くことができなくなっているがゆえに魅力的であり、その魅力的な響きが見事にとらえられているところにこの録音の大きな価値があるのです。
ザックリとした暖かな手触りをもった響きは、ヨーロッパの名門オケも基本的にはそれぞれの地方に根を張った「田舎オケ」だった時代の響きに通じるものです。そして、その中にはミッシリとした果肉がいっぱいに詰まっているような響きなのです。とりわけ、トゥッティでオケの響きが膨れあがるときには、まるで音の壁が出現するような厚みが聞くものに迫ってきます。
コロンビア響は編成が小さいので響きが薄いなんて誰が言い出したのだろうと訝しく思うほどです。
それは機能性を重視することで、ともすれば無機質でノッペリとした響きになるハイテクオケの響きとは随分と世界が異なるのです。

さらに、もう一つ注目したいのは、意外なほどに立体的な音場空間も実現していることです。
それは、ただ単に左右に分離するだけでなく、弦楽器群の後ろに管楽器が位置する様子や、左手奥で鳴り響くティンパニなどの打楽器群のリアリティは見事としか言いようがありません。
そう言えば、ハリー・ピアソンという人は巨大なスピーカーを使った大音量再生を旨とする人でした。私などは想像するしかないのですが、そう言うシステムでこのような録音を再生すれば、それはまさにコンサートホールで鳴り響くオーケストラさながらの音響世界が実現するのではないでしょうか。
さすがに私のシステムではミニチュアレベルの再生に留まりますが、それでもそのリアルさはなかなかのものです。
そして、同じドヴォルザークの8番という事で、ケルテス&ロンドン響による「Decca録音」と、このワルター&コロンビア響による「Columbia録音」の響きを聞き比べてみると、そこからは明らかにレーベルの指向する響きの違いのようなものが見えてくるのです。
誤解を恐れずに言い切ってしまえば、「Decca」は「実演」ではあり得ないような「鮮明」さを追求するのに対して、「Columbia」は出来る限り「実演」の「ニアイコール」の世界を求めると言うことでしょうか。
もちろん、それもまたどちらがいいというような話ではありません。
大切なことは、50年代から60年代にかけて、その様な多様な世界がオーディオの世界では花開いたと言うことです。
そして、その様な多様性がソフトにおいてもハードにおいても失われていくことによって、オーディオという世界の輝きも失われていったような気がします。それは、言葉をかえれば、機能性を追求し、数値だけを指標とした「唯一の正解」を追いかけることによって、その魅力は色あせていったのかもしれません。
「TAS Super LP List」が50~60年代の録音で多くが占められてるのはそれなりの理由があると言うことなのでしょう。