メモリ再生~音楽との向き合い方

少しずつ失ったデータの分は回復していきたいと思います。一つずつ手作業での追加になりますので、無理のない範囲でぼちぼちと追加していきます。

この1週間、様々な方から報告をいただくことができ、どうやらメモリ上での再生は音質的にはメリットがあることは確認されたと「認定(^^;」していいようです。
このメモリ再生というのは、実にもって下らぬ理由から思いついたのですが、その思いつきをはじめて試したときの「驚き」は今もって忘れることはできません。

再生に使ったのは、ブダペスト弦楽四重奏団による1958年録音の「ベートーベン:弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 作品18-4」でした。オーディオ歴の長い方ならば、この録音が一つの試金石であることはよくご存知のことだと思います。そう言えば、音に五月蠅いおじさんとして知られているオーディオ評論家の柳沢氏なんかも、システムの能力を見極めるためのソフトとしてこれをあげていました。
昔はギスギスした音にしか聞こえず、かといって手綱を緩てまったりと響かせれば緩い演奏としか聞こえなかったので、何が「システムの能力を見極めるためのソフト」だと思ったものです。しかし、メモリ上で再生した音をはじめて聞いたときは、それこそ椅子からずり落ちるかと思うほど驚かされました。
そして、これこそがこのソフトに入っている「システムの能力を見極めるための音」なんだと納得した次第です。いつも思うことですが、経験を積んだ年寄りの言葉は取りあえずは聞いてみるものです。

メモリ上にたまる「ページキャッシュ」

さて、本題に入る前に一つ小ネタを提供しておきます。
それも、lightmpdにおけるメモリの挙動です。

今さら言うまでもないことですが、lightmpdは外部ストレージであるSDカードから起動した後は完全にメモリ上に展開されて動作します。ですから、lightmpdの動作は全てメモリ上で行われることになります。
ところが、lighympdを動作させてメモリの挙動を追ってみると、何故かページキャッシュがたまっているように見えます。

例えば、『ベートーベン:ピアノソナタ31番』・『シューベルト8番「未完成」 ロ短調』『「モーツァルト:交響曲40番 ト短調』をメモリにコピーをして再生させた後に、それらを全てメモリ上から削除します。

rm -f /var/tmp/*

それから再『「チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴』をコピーしました。

メモリの挙動を追いかける最も簡単な方法は「free」コマンドを使うことです。この状態で「free」コマンドで聞いてみると以下のようになりました。

# free
total used free shared buffers
Mem: 4013412 1595788 2417624 995340 668
-/+ buffers: 1595120 2418292
Swap: 0 0 0

チャイコフスキーの『悲愴』を一曲だけコピーした状態で、約1.6Gbが使用されていて、フリーなメモリの容量がおおよそ2.4Gbというのはあり得ない話です。

と言うことは、先に3曲コピーをして再生させることで使用されたメモリが解放されていないと言うことです。
一般的には、こう言うときは「ページキャッシュ」がたまっていることが原因なのですが、全てがメモリ上で動作するシステムでページキャッシュがたまるというのは実に不思議なのです。

ここはLinux講座ではないので詳しい話は避けますが、私の理解では、ページキャッシュというのは外部ストレージからファイルの読み書きなどをするときに発生するものだと思っていました。

CPUは直接外部ストレージからデータを読み込むことができないので、全てのデータを一度はメモリ上に書き出す必要があります。しかし、それを毎回行っていると極端に動作が遅くなるので、一度読み込んだデータはメモリ上に置いておくようになっています。
そして、このメモリ上に置かれているデータがページキャッシュと呼ばれるものなのです。

しかし、lightmpdは全てがメモリ上で動作しているので、外部ストレージからデータを読み込む必要はないのでページキャッシュはたまるはずはないと思うのです。
しかし、この「free」コマンドの結果を見る限りはが、何故かページキャッシュたまっているように見えるのです。

確かに、「free」コマンドはそれほど正確にメモリの挙動を表示できる能力は持っていませんし、とりわけ、そこで表示される「free」の数値がそのままメモリの空き容量を示すわけではありません。
とはいえ、「used」の値が「1595788(Kb)」というのはいかにも大きすぎる値です。

そこで、試しにこの状態で「ページキャッシュ」をクリアするコマンドを打ってみます。

# sync
# sysctl -w vm.drop_caches=3

「sync」コマンドはお呪いみたいなものです。「sysctl -w vm.drop_caches=3」はメモリ上のキャッシュを解放させるコマンドです。

# free
total used free shared buffers
Mem: 4013412 1112896 2900516 995340 696
-/+ buffers: 1112200 2901212
Swap:

何故か解放されたように見えます。
そして、これまた何故か分かりませんが、こうやってメモリ上の「ゴミ」みたいなものを綺麗に掃除しておくと、何故か音が変わります。ここはあえて「良くなる」というような価値判断は慎重に回避しますが、明らかに再生音は変わります。

まだまだPCオーディオの奥は深いようで、嬉しくなってきます。(^^v

なお、メモリの挙動をもっと詳しく追いかけるには「# cat /proc/meminfo」のほうがいいようです。
暇なときにでもこの問題はもう少し追いかけてみたいと思います。

音楽との向き合い方

ここから述べる話は基本的には昭和レトロな話なので、若い方にとっては年寄りの戯言としか聞こえないかもしれません。しかし、最初に述べたように、「経験を積んだ年寄りの言葉は取りあえずは聞いてみるものです。」
できれば、最後までおつきあいいただいて、率直な感想をいただければ幸いです。

メモリ再生の音の良さは認めても、その使い勝手の悪さは「許容範囲」を超えているので、これはあくまでも「実験」の域を出ないと思っていました。
ですから、個人的には通常の「NAS」から再生するシステムと、メモリから再生するシステムの2種類を作っておいて、その時の気分で使い分ければいいと思っていました。もっと有り体に言えば、通常は使い勝手の良い「NAS」からのシステムを使い、気合いを入れて音楽を聞きたいときはメモリ再生をすればいいと考えたのです。

もちろん、その度にケースをばらしてSDカードを入れ替えるのは大変ですし、telnet接続をして設定ファイルを書き換えるのも面倒です。
しかし、ある方からの情報で、lightmpdはUSBメモリからでも起動できることが分かりました。
ただし、何故か起動できるUSBメモリと、起動できないUSBメモリがあって、その違いは未だによく分からないのですが、それでも起動できるUSBメモリが2本あればいつでも自由に使い分けることができます。(この辺りの詳しいことはまた別の回に譲ります。)

ところが、実際にこれをやってみると、通常の「NAS」から再生するシステムの音は聞いていられなくなってきたのです。結果として、気がつけばメモリ再生のUSBメモリだけがlightmpdに刺さっている状態が多くなり、ついにはそれで固定されてしまいました。別段、何かの積極的な理由があってそのような選択をしたのではなくて、あくまでも気がつけばそうなっていたのです。

これには、自分でも驚いてしまいました。
そして、もっと泥いたのが、このような、きわめて使い勝手の悪いシステムで音楽を聴き続けているうちに、「音楽と向き合う姿勢」が自分の中で変化してきていることに気づかされたことでした。

まずは、その日に何を聞くのか、もしくは何を聞きたいのかを慎重にチョイスするようになりました。
何しろ、今まで見たいにワンクリックで選択はできませんし、メモリ上にファイルをコピーするのは面倒なので、自然と選択は慎重にならざるを得ません。

次ぎに、一度聞き始めた音楽はよほどのことがない限り最後まで聞き通すようになりました。
なにしろ、HUBの電源をオフにしてLANケーブルが外れている状態にしていますから、クライアント側から音楽をストップするだけでももう一度席を立ってHUBの電源をオンにしにいかなくてはなりません。結果として、最初は面白くないと思っても、よほどのことでもない限りは最後まで聞き通すようになりました。

その結果が何が起こったでしょうか?
こういう言葉を使うのは気恥ずかしいのですが、今までの便利極まる状態での聴き方をしていたときと較べれば、明らかに音楽と真摯に向き合っている自分を見いだすようになったのです。
そして、気がついたのです。
こういう聴き方って昔のアナログレコードの時とそっくりだと言うことを!!

アナログ時代への精神的回帰

アナログレコードの時代は、まずはその日に聴きたいレコードを探すことから始まりました。

当然の事ながら、今のようにクライアントソフトが音源の一覧をリスト表示してくれるわけではないので、自分の手を使ってレコード棚から一枚一枚抜き出してはチェックしたものです。
アナログレコードはジャケットが大きくて美しいと言われるのですが、棚に並べられている状態では背文字しか見えないので、結局は一枚一枚抜き出して確認する必要があったのです。
Kleiber_sym9
そして、取り出したジャケットからレコードを取り出すのも結構手間がかかったものでしたし、傷を付けないようにと随分と気を遣ったものです。

さらに、そうやって取り出したレコードをそのままプレーヤーにセットをして再生するような人はいなかったはずです。レコードクリーナーで念入りに盤面を綺麗にしてからプレーヤーにセットして、漸くにして盤面に針を落としたものです。

また、その音楽が気に入らなくてストップしたくなっても、ワンクリックでストップはできません。リモコンでストップもできません。どれだけ面倒でも席を立って針をあげにいく必要があったのです。

最後に、それらに加えて、少しでも良い音で聞きたければ、それこそ数え切れないほどの調性ポイントがありました。ゼロバランスの調整、針圧の調整、アンチスケート調整、トーンアームの高さ調整・・・などなど数え上げればきりがありません。
そして困るのは、こういう調整は全て機械的に行うものなので、どれほど念入りに調整しても日が経てば確実に狂ってくるのです。よって、最高の状態を保ちたければ常に気をつける必要があったのです。

おまけに、その頃のLPレコードは、今の感覚からすれば随分と高かったと言う、さらに深刻な問題が存在していました。

私がレコードを自分のお金で買い始めた頃は、新譜で2800円、再発盤で2000円から1800円、そして廉価盤で1300円というのが底値でした。アナログレコード最盛期の70年代の物価水準は現在の二分の一から三分の一でしたから、今の感覚で言えば廉価盤でも2500円から3000円くらいの感覚だったのでしょう。
新譜ともなれば一枚1万円近い感覚ですから、それこそ押し頂くようにして聞いたものでした。

私の手元には、レコ芸の付録として発行されていた「作曲家別・洋楽レコード総目録」というものが何冊か揃っています。
それを見てみると、60年代の初めでも新譜のレコードには2000円という値札が付いています。60年代初頭の物価水準は現在のおよそ八分の一ですから、感覚的には一枚16000円です。
歌劇「オテロ」全曲三枚組なんてのは6000円という値が付いています。

とてもじゃないですが、普通の庶民が簡単に買えるような代物ではなく、もしも何かの僥倖で入手できたとしたら、それこそ「家宝」のように押し頂いて聞いたものだそうです。

私がクラシック音楽などというものを本格的に聞き始めたのは、無事に就職ができた70年代も終わりの頃でした。さすがに、レコードを家宝のように押し頂くように聴いていた時代の感覚を共有することはできませんが、それでもレコードは気楽に何枚も変えるようなものではありませんでした。
当時の私は実家から通う気楽な身分だったのですが、それでも一ヶ月に変えるレコードの枚数はせいぜい5枚程度でした。
当時は職場の近くに新星堂のお店があったのでよく利用していたのですが、その程度の客でも店に顔を出すと必ず店長さんが出てきて挨拶をしてくれたものでした。

私の親友で呉服屋を営んでいる奴がいて、そこの上得意さんの中に大変なクラシック音楽ファンがいました。彼の話によるとそのお金持ちは毎月のレコ芸で特選に選ばれたレコードは全て買い込んでいたそうです。今では考えられないほどの事大主義的なチョイスなのですが、そのお宅にはお店の方から毎月お届けに上がっていたそうです。

つまりは何を言いたいのかというと、昔は一枚のレコードを本当に大切にして聞いていたのです。
それはレコードを購入するという段階から始まって、今日はどのレコードを聴こうかというレベルに至るまで、実に丁寧に向き合わざるを得なかったのです。

それと比べれば、今はあらゆるジャンルの音楽をシャワーを浴びるかのごとく気楽に享受できるようになりました。音質を気にしなければほとんどの音楽はフリーで入手できますし、その音楽をちょっと聞いて気に入らなければすぐに次ぎの音楽に移っていくことができます。
音楽の入択も、再生も、ストップも、全てワンクリックです。
そして、この多様性の享受と利便性の圧倒的な向上こそがPCオーディオがもたらした最大の恵みでした。

私がこの実験をお願いしたときに真っ先に報告をいただけたTitanicさんもはっきりと指摘されています。

「pcオーディオあるいはネットワークオーディオの一番の特長である、ぱっと楽曲が探せる検索の利便性はほとんどなくなってしまいます。」
「メモリーにコピーする作業をせずに、若干の音質低下と引き換えにいつでも聞きたいときにパッといい音で聞けるという利便性を確保するために、オーディオ用のNas等々も存在価値があるとは考えられないでしょうか?」

全くその通りだと思います。
しかし、私自身がこの不便極まるメモリ再生を行っていて気がついたのは、その様な利便性をあえて捨てて、昔のアナログ時代のような聴き方に戻ることで得られるものもあるということです。
言い方を変えれば、「PCオーディオあるいはネットワークオーディオの利便性」と引き替えに失ってしまったものがあるのではないかと言うことです。

もちろん、その様なアナログ時代のような聴き方こそがすぐれていて、PCオーディオ的な便利を生かした聴き方が劣っているなどと言うつもりは毛頭ありません。
ただ、できうるならば、現在の利便性の中で失ってしまっているものはないのか!?・・・と言うことを、一度くらいは立ち止まって考えてみてもいいのではないかと思うのです。

そして、私の結論は、あえてこの不便さを愛でることで昔に戻ることでした。
いや、正確に言えば、最初に述べたように、その様な選択を積極的に行ったのではなくて、気がつけばそうなっていたのです。

おそらく、私も年をとったのでしょう。
つまらない音楽を、つまらない聴き方で潰せるほどには時間は残っていないと言うことなのでしょう。