優秀録音の検証~「ウィルマ・コザート(Wilma Cozart)」(2)

時代の先駆者としての長岡鉄男

オーディオにおける「録音」の話をするならば避けて通れないのは「長岡鉄男」です。亡くなってから15年以上の時間が経過するのですが、未だに根強いファンが存在します。
とりわけ彼の「外盤A級セレクション」は何度も復刻され、図書館に行けばサンプラーCD付きの書籍が簡単に借りてこられます。そして驚くのは、それらは未だに借りる人が多いようで、「予約」を入れておかなければいつまで経っても順番が回ってこないのです。

長岡はそれらの書籍の中で「A級の音はA級のソースから」と言うことを何度も繰り返しているのです。
何のことはない、私がこのシリーズを始めるときに宣言した内容は何も目新しいものではなくて、既に何十年も前に長岡が喝破していたことなのです。もちろん、ここでもう一度長岡の業績を振り返る余裕はありません。また、そんな事をしなくても長岡の書いた書籍は今でも簡単に読み返すことが可能ですから、それを読んでもらえば済むことです。

ただ、彼が書いている中で幾つか「なるほどね」と思わされるものがありましたので、それだけは再録しておきます。

先ず一つめは、自らのスタンスとしては、できる限り手を加えずにシンプルに音を収録することによって実現する「生々しい音」こそが「良い音」だとのべています。

長岡はこの「できる限り手を加えない」と言うことを「マイクからカッターヘッダーまでの物理的、電気的距離が近い」事だといい、理想としては「マイク2本、カッティングアンプ直結のダイレクトディスク」としています。
「カッティングアンプ」なんて言われても「アナログレコードの時代の話」なので若い人は何のことか分からないかもしれませんね。
興味のある方は「日本唯一のレコードプレスメーカー東洋化成のエンジニアにレコードの疑問について聞いてみた Vol.1」「日本唯一のレコードプレスメーカー東洋化成のエンジニアにレコードの疑問について聞いてみた Vol.2」あたりをご覧ください。
結構面白い話が満載です。

そして、こういうシンプルさにあれこれの加工、例えば「ミキシング、ダビング、トラックダウン」などを繰り返していくと音はどんどん悪くなり、荒れて濁った音になっていくと主張しています。マルチマイク録音全盛の時代にあってこういう事をきちんと主張していたことにあらためて驚かされました。

しかし、そう言いながらも、二つめとして、「良い音というのは結局は人それぞれ」というスタンスも貫いていることです。
長岡という人はどこか「傲慢」な雰囲気がなくはない人物なのですが、「良い音」と言うことに関しては決して自分の価値観を押しつけるようなことはしていなかったと言うことは再確認しておいていいことでしょう。

例えば、余分な加工を繰り返した結果としての「荒れて濁った音」が好きだという人がいても、ポピュラー系の音楽では生演奏はPAからの荒れた音で聞くものなので、それもまた当然というスタンスを取っています。
確かに、こういう「荒れた音」が好きだという傾向はもしかしたら長岡の時代よりも今の方が顕著かもしれません。

ただ、今回長岡を取り上げたのは、書籍に付録としてついているサンプラー音源を分析して驚かされたからです。このCDには13の音源が収録されているのですが、その中から幾つか「波形」を紹介しておきます。

アラブ・アンダルシアの音楽~ムッサダル:グレゴリオ・パニアグワ(指揮)&アトリウム・ムジケー古楽合奏団(HMA195389)

J.S.バッハ:リュート組曲第4番変ロ長調BWV1010~プレリュード:ホプキンソン・スミス(リュート)(E8938)

モーツァルト:幻想曲 ニ短調KV397:ヨス・ファン・インマゼール(フォルテピアノ)(ACC10018)

超絶技巧トランペット~アレクシス:ソナチナ:エドワード・タール(トランペット)(BIS152)

インマゼールのモーツァルトが最後の最後でリミットいっぱいまで音量が上がっていますが、基本的には驚くほどに抑制的な作りになっています。そして、これらの音源を聞くときには私のシステムではプリアンプのボリュームを2時あたりにすると実にいい感じで再生されます。
昨今の音源ソースは通常は12時、ひどいものになると11時でも五月蝿く感じるものもありますから、この抑制した音源の作り方は感動的ですらありますし、「良い音」とはこういうものだという「波形」を見せてもらった感じです。
まな板にのせる音源が音圧競争の弊害にさらわれていないかどうかを見極める一つのスタンダードになりうる「美しい姿」だとは言えます。

メンデルスゾーン:交響曲第5番 ニ短調 「宗教改革」 ポール・パレー指揮 デトロイト交響楽団 1958年3月21日録音(Mercury Living Presence3 CD31)

「Mercury Living Presence」シリーズはよほど好評だったようで現在は「Mercury Living Presence3」までリリースされています。それぞれが50枚程度のボックス盤でそれぞれが15K円を超える高額商品ですからよく売れたのでしょう。
そして、伝説の録音ディレクター「ウィルマ・コザート」の実績を知るためには、現時点ではこれが唯一の現実的選択と言うことになります。そして、それぞれのボックス盤には「THE TRUE STORY OF A LEGENDARY LABEL」と麗々しく詠っているのですから、食指が動く人は動くでしょう。

ところが、この間このシリーズを色々聞いてみて、この「THE TRUE STORY OF A LEGENDARY LABEL」にはかなりの「嘘」が含まれているような気がしてきているのです。その「嘘」とは、何度も指摘してきた「音圧競争の弊害」がこのシリーズにも色濃く影を落としているようなのです。
例えば、こんなひどい音源がこのシリーズに含まれていました。

チャイコフスキー:スラヴ行進曲 アンタル・ドラティ指揮 ミネアポリス交響楽団(Mercury Living Presence3 CD12)

絶句するしかないような「波形」です。そして、これを「音圧競争の弊害」と言わずして何を弊害というのか、と言いたくなるような無惨な編集です。
流石に、これはとびきりひどい例ではありますが、クライマックスの部分で完全にリミットいっぱいまで音圧を上げてしまっている「編集」が半数を超えるというのがこのシリーズの「正体」のようなのです。

正直言って、そんな無惨な編集が施された音源でもってコザートの業績が判断されるようなことがあれば、それはもう「犯罪行為」に近い所業と言わざるを得ません。ですから、ここしばらくは、このシリーズの中から、まだしもまともな編集の範囲でおさまっているコザートの録音をレスキューしていきたいと思います。

と言うことで、まずはメンデルスゾーンの交響曲です。
ちなみにコザートは有名どころの3番と4番はドラティの指揮で録音していますが、残念ながら2つともかなりひどい編集の手が加えられています。辛うじて、パレー指揮による「宗教改革」だけが生き残ったという感じです。
取りあえずは各楽章毎の「波形」を見ておきます。

メンデルスゾーン:交響曲第5番 ニ短調 「宗教改革」 「第1楽章」

メンデルスゾーン:交響曲第5番 ニ短調 「宗教改革」 「第2楽章」

メンデルスゾーン:交響曲第5番 ニ短調 「宗教改革」 「第3楽章」

メンデルスゾーン:交響曲第5番 ニ短調 「宗教改革」 「第4楽章」

危なそうな場面はありますが、ドラティ指揮の3番と4番の編集はもっとひどいです。
ただし、これでも「音圧競争の弊害」の被害を被っていることは否定できません。それは長岡のサンプルCDの波形と較べてみれば一目瞭然です。
結局これは、5番の交響曲が3番や4番と較べてクライマックスで金管が抑制的に使われているという作品の特徴によって「偶然すくわれた」と言うだけの話なのでしょう。

しかし、そう言う「被害」を被りながらも、ここからはコザートの優れた才能と、その期待にこたえて完璧にオケをコントロールしきっている若きパレーの才能を感じとることができます。

メンデルスゾーンはロマン派」の音楽家に分類されます。
こういう音楽史的なことは「音楽」を聞く上では全く無用の長物のように思われるのですが、録音ディレクターにとっては頭の中に入れておかなければいけないことなのです。

それはどういう事なのかと言えば、「古典派」の音楽家である「ベートーベン」の響きと、メンデルスゾーンなど「ロマン派」の音楽家の響きはどのような違いがあるのかという問題なのです。
例えば、ここで紹介している「交響曲第5番」の楽器編成は以下の通りです。

フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、コントラファゴット(1)、ホルン 2、トランペット 2、トロンボーン3、セルパン1、ティンパニ、弦五部。

「セルパン」とは聞きなれない楽器ですが、低音を担当する金管楽器で、今ならば「チューバ」が使われるのが一般的でしょうか。
こうしてみると、ホルンが2つしか使われていないので、ベートーベンの5番あたりと較べてもほとんど差はありませんし、規模の大きかった9番と較べれば抑制的ですらあります。

ならば、この二人は音楽史的に異なる2つのカテゴリに分類されるけれども似たような響きで音楽を書いたと言えるのでしょうか。
答えは明らかに「No!」です。

ベートーベンの特長は、弦楽器を基本としながらそこへ次々と楽器を重ねていくことで、今まで誰も考えつかなかったような巨大な響きを実現したことです。そして、その響きはオーケストラを一つの有機的な楽器であるかのように渾然一体となって響くことを彼は追求しました。
おかしな話ですが、ベートーベンの交響曲のクライマックスにおいては、個々の楽器の分離が良く一つ一つが克明に聞き取れることは決してプラスにはならないのです。ベートーベンの音楽においては、オーケストラはそれがまるで単一の有機的な楽器であるかのように鳴り響くことこそが求められるのです。

それに対して、ウェーバー以後のロマン派の音楽家達は、弦楽器を主体とすることは変わりはないものの、そこでベートーベンのような巨大な響きを作り上げることよりは、管楽器をまるで協奏曲の独奏楽器のように響かせることを通して幻想的な世界を作り上げることに力を注いだのです。
とりわけメンデルスゾーンは木管楽器の響きを好み、それらをソロイスティックに歌わせる場面をたくさん用意しました。

ですから、メンデルスゾーンの音楽では、弦楽器の響きを前景としながら、そこに木管楽器やホルンなどの美しい響きがはっきりと聞こえてこないといけないのです。当然の事ながら、その響きは音場における然るべきポジションで常に鳴り響かなければいけませんし、その音色はそれぞれの楽器に相応しい美しさを保持していなければなりません。

そして、この録音においてもっとも称賛すべきは、その様な管楽器群の音のすくい取り方なのです。

また、メンデルスゾーンはクライマックスにおいてもベートーベンのような巨大な響きは求めませんでした。それは、彼が金管楽器を常に抑制的に使っていたことからも明らかです。
ですから、第1楽章や終楽章において、こんなにも音圧を上げて「どうだ凄いだろう!」と盛りあげる必要などは全くなかったのです。

もう少し抑制的にダイナミックレンジを扱ってもらっていれば、もっとコザートの腕の冴えを感じ取れただけに実に残念です。
とは言え、これでもまだましだと言うところにこのシリーズの罪深さが表れています。


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