優秀録音の検証~「ウィルマ・コザート(Wilma Cozart)」(1)

「録音エンジニア」にも注目しよう

当たり前の話ですが、私たちがCDを購うときは、まずは「作品」、そして「演奏者」に注目するのが普通です。
クラシック音楽の世界ならば、まず始めは「作品」が選択の中心となるでしょう。やがて、主な作品を聞いてしまうと興味は「演奏者」に移っていきます。しかし、そうやって長年にわたって「聞き比べ」にいそしんできた人でも、その音源の「録音エンジニア」にまで注意を払う人は滅多にいません。

私だってそうです。
こういうサイトをやっていますから、目についた音源があれば片っ端から購入するというスタンスでこの10数年を過ごしてきました。もうどれほどのCDを買い込んできたのかは数えるのも面倒な量になってしまいましたが、それでも「HMV」や「タワレコ」あたりからは盆暮れの付け届けがあっても良いのではないかと「軽口」はたたけるほどの量になっています。
それでも、CDを購入するときの基準として「録音エンジニア」を意識することはほぼ皆無でした。

しかし、最近になって、それって意外と大切なことではないかと思うようになってきました。
私は常々、再生する側も演奏者がその演奏にこめたであろう「献身」にこたえられるほどの「献身」が必要だと主張してきました。「私は音楽を聞くのであって音を聞くのではない」というもっともらしい主張に出会うたびに、演奏家が自らの音楽を構成する要素としての「音」に対して、どれほどの深い配慮を払っているかを思い出してほしいと繰り返し主張してきました。

しかし、最近気づいてしまったのですね。
演奏家の献身に見合うほどの献身を持って録音という行為に取り組んでいない連中がたくさんいると言うことを!!
ですから、身を削るがごとき献身を持って演奏という行為に取り組んでいるものを、ものの見事なまでの無惨さでズタズタにしてしまっている録音がこの世の中には溢れていると言うことを!!

一例を挙げましょう。
70年代から80年代にかけて、録音のフォーマットがアナログからデジタルに移行する時期の「EMI」の録音。

その実演に何度か接し、まさにおのが命を削るがごとき献身を持って音楽に取り組んでいることを目の当たりに見せつけてくれたクラウス・テンシュテットの録音の何という無惨さ!!
その録音には、彼の実演から発せられるオーラの影さえ残っていないのです。

そして、愚かだった私は、その無惨さをおのが再生システムの至らなさだと恥じていたのですから、お人好しも極まれりです。
さらに、こういう無能な録音エンジニアのせいで、CDという規格はその離陸時に「あらぬ汚名」を着せられることにもなったのです。

ですから、私たちがCDを購うときにはもう一つ重要なチェックポイントがあったのです。
それが「誰が録音したのか」という「録音エンジニア」のクレジットです。そして、長い録音の歴史を振り返ってみれば、本当に凄かった録音エンジニアが存在したのです。

演奏家の献身に恥じることのない献身を持って録音という行為に挑んだ人たちがいました。そして、今も「いる」と信じたいと思います。
しかし、彼らの名前は作曲家や演奏者ほどには人の口に上ることはありません。なんと言っても、情報量が段違いに少ないのです。
ですから、そう言う録音エンジニアが取り組んだ軌跡を「優秀録音の検証」として取り上げていくことは意味のあることだと考えた次第です。もちろん、私はその様な録音の世界とは全く無縁の素人であり、それほど詳しい知識があるわけではありません。

勘違いや誤りもあるかもしれませんが、それでも自分の耳で聞いて「これは素晴らしい」と思った人たちの業績をねばり強く追いかけていきたいと思います。

録音史上、もっとも耳がよいと言われたエンジニア~ウィルマ・コザート(Wilma Cozart)

コザートについては既に「ソフトは王様~録音クオリティの検証~Mercury」で一度取り上げています。
また、コザートはこの世界ではとびきりのビッグネームですから今さら私ごときが取り上げるまでもないのですが、それでも彼女が残した業績を実際に聞くことのできる形で追いかけることには意味があるでしょう。

コザートの録音の特徴は、とびきりの鮮明さと空間いっぱいに広がるダイナミックな響きの見事さにあると言えます。それをもたらしたのは、モノラルならば一本のマイク、ステレオ録音になってからは左右に一本ずつ追加して合計で3本という「ワンポイント録音」のスタイルを厳格に守り続けることでした。
このワンポイント録音を成功させるための条件は基本的には以下の3点だと言われています。

  1. オケの響きを完璧にコントロールできる指揮者と、その指揮者の要求にこたえられるオケの能力
  2. 録音に適した響きの良いホール
  3. 最良のマイクセッティングを実現できるエンジニアの能力

最良のマイクセッティングが実現できた最大の原動力はコザートの耳の良さでした。
そして、そんな彼女の耳を納得させられた指揮者はドラティでありパレーであり、スクロヴァチェフスキーだったわけです。
とりわけ、アンタル・ドラティこそは彼女のもっとも良きパートナーでした。

バルトーク:2台のピアノと打楽器のためのソナタ, Sz.110 アンタル・ドラティ指揮 (P)Geza Frid ,Luctor Ponse ロンドン交響楽団 のメンバー 1960年6月6日録音(Mercury Living Presence2 CD10 434 362-2)

まず最初に断り書きをしておかなければなりません。
このシリーズは「『You are there』を謳い文句に、音が生まれるその場にいるような臨場感を再現するマーキュリー独自の録音方法によって収録された名盤の数々は、今聴いても実に新鮮ですし、戦後まもなくの活気に満ちた演奏スタイルを味わえる点で、その存在感には非常に大きなものがあります。」という宣伝文句がつけられているのですが、幾つか注意が必要です。

まずはバルトークのこのソナタの波形です。

Bartok:Sonata for 2 Pianos and Percussion, Sz.110 [1.Assai lento – Allegro molto]

Bartok:Sonata for 2 Pianos and Percussion, Sz.110 [2.Lento, ma non troppo]

Bartok:Sonata for 2 Pianos and Percussion, Sz.110 [3.Allegro non troppo]

この波形情報だけでは、もとのアナログ情報がどれほど保持されてるかは判断できないのですが、無用な音圧競争の弊害はあまり受けていないようには思います。
ところが、同じバルトークの「かかし王子」だとこんな無惨なことになっています。

Bartok:The Wooden Prince [3.Second Dance:Dance of the Trees]

波形情報が全てではありませんが、それでもこの録音に関しては編集過程で無惨なまでの「改悪」が為されてしまっていることは否定できません。
実際、私はプリアンプのボリュームは概ね12時のポジションを基本にしているのですが、「かかし王子」の場合はそれだと五月蝿すぎて聞いていられなくなるので11時に落としました。逆にソナタの方は12時だといささか物足りないので1時にボリュームを上げて聞きたくなりました。

おそらく、パッと聞いただけでは「かかし王子」の方がバルトークの暴力的なまでの荒々しさが良く表現されていて好ましく思えるかもしれませんが、その代わりにバルトークの作品に絶対に必要な硬質な透明感はかなり犠牲となっています。
それに対して、ソナタの方はボリュームを1時に上げても全く五月蝿く感じることはなく、とりわけ弱音部でも芯のしっかりとした響きが見事なまでに再現されます。

ちなみにソナタの方はコザートの手になる録音ですが、かかし王子の方はコザートがMercuryを去った後の録音です。もちろん、コザートが去ったとは言え、こんなひどい録音に激変したわけではありませんから、罪の基本は編集の方にあります。
ですから、このシリーズは「編集」においてもかなり玉石混淆になっていることは承知しておく必要があります。

おそらく、このソナタの録音を聞いて感じるのは「静けさ」ではないでしょうか。
もちろん音は鳴り響いているのですから「静か」なはずはないのですが、それでもこの録音から受ける印象は「静寂」です。至るところで打楽器が鳴り響き、ピアノもまた打楽器的に扱われる場面が多いのですから、それは考えてみれば不思議な話です。

しかし、この静けさは、どこか日本の「能」の世界に通ずるようなものがあります。
能舞台に鳴り響く「鼓」の音は物理的に聞けば結構鋭い響きなのですが、それがポンと鳴り響くことでより一層「静寂」が深まる「あの世界」です。

それはきっと、コザートが音楽が鳴り響く場としての「静寂」を見事にすくい取っているからなのでしょう。こんな書き方をするとまるで「禅問答」みたいだとお叱りを受けそうなのですが、それでもやはり、そうとしか言いようがないように思うのです。