音圧競争に関する話題は前回だけにするつもりだったのですが、Hippoさんより「トゥルーピーク」に関する話題が出ましたので、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。
何が音圧競争をもたらしたのか
その前に、問題の本質として指摘しておくべき重要な事項の一つが前回の話題では抜け落ちてきていましたので簡単に補足しておきます。
前回は、「何故にこのような音圧競争が発生するのか」という根本的な問題に関して、「それはチープなシステムで聞いたときにもっとも良い状態で再生できるようにするため」と答えておいたのですが、実はもう一つ重要なファクターが存在します。それは、この「弊害」をもたらした原因は「チープなシステムに安住している受け手」だけでなく「他よりもひたすら目立ちたいと願う送り手」にも大きな責任があったという事実です。
演奏するサイドにしてみれば、まずは自分の音楽に注目してもらわなければ話は始まらないと言うことがあります。自分のまわりでいろいろな音楽が「迫力満点」でガンガン鳴り響いている中で、自分の音楽だけがひっそりと静かに鳴っていたので、殆どの人は見向きもしてくれないという「恐れ」があります。
もちろん、その様な「恐れ」は自らの音楽の価値を信じていないがために起こる「恐れ」ですから、価値を信じるものにとっては全く関係のない話になります。
例えば、私が大好きなEnyaの「How Can I Keep from Singing」
しかし、その「価値」を信じられないもにとってはその「恐れ」はそれは動かし難い「現実」として認識されているようです。
ですから、彼らは「編集」の段階で音圧を上げることを要求します。
そして、その要求は一般的に録音エンジニアの良識をはるかに超えるレベルにまでヒートアップしていきます。彼らにしてみれば、自分たちと競合する相手はターゲットされているでしょうから、それとの比較の中で要求はどんどんヒートアップしていくわけです。その結果として、デジタル領域で見れば殆どの音が「0dB」近辺に張り付いてしまうことになります。
しかし、デジタルデータの場合は録音、編集の過程で「0dB」を超えるとリミッターがかかりますので、見た目は頂上部分がカットされた「台形」状の波形として表示されます。
例えばこんな感じの波形になります。(^^v
いささか感動的な思いにさせられる「波形」ではありますが、例え通りすがりの人であっても自分の音楽に振り向いてほしいという「May J」のココロの叫びが聞こえてきそうな波形です。
さらに、こちらは、本田美奈子の「1986年のマリリン」です。
お臍を出して歌っていた悲しきアイドル時代の「波形」なのですが、こうなると「ココロの叫び」と言うよりは「痛ましさ」すら感じてしまいます。
しかし、そんな彼女もミュージカル「ミス・サイゴン」のオーディションに合格して新しい道を踏み出してからは、音楽の形が根本から変わっていきます。今も彼女を追悼するときに真っ先に思い浮かぶのが「Amazing Grace」なのですが、その波形はこうなっています。
確かに、弱音部の底上げは為されているようですが、それでも、ポップス・ミュージックであっても私たちが本当に聞きたい音楽とはどういうものかを静かに問いかけてくるような「波形」なのではないでしょうか。(^^;
「トゥルーピーク」という落とし穴
しかし、ここで一つの疑問というか、開き直りの言葉が聞こえてきます。
「例えピークでリミッターがかかって波形が台形になっていても、デジタルである以上はそこで歪みは生じないんだよ!」
確かに理屈で言えばその通りなのですが、もう少し理屈が分かる人ならば「その通り」ではないことが分かるはずです。
それが「トゥルーピーク」と呼ばれる問題なのです。
問題の根っこは何処にあるのかと言えば、どのような「デジタルデータ」であっても、実際に音楽を聞くときには「アナログデータ」に変換しなければいけないと言うことです。もしかしたら、世の中は広いですから「0」と「1」のデータの並び方を見ただけで「音楽を聞いたような」思いになれる人もいるのかもしれませんが、凡人には到底到達不可能な世界です。
我ら凡人は、その「0」と「1」のデータをアナログ信号に変換し、それをアンプで増幅して、さらにはその信号をスピーカーに送り出して振動板を動かし、それが最終的に空気の振動として耳に届くことでしか「音楽」を感じとることはできません。
問題は、このデジタルデータをアナログ信号に変換するときに発生します。
これも、言葉よりは図示した方が分かりやすいでしょう。
デジタルデータはサンプリング周波数に基づいたある一点におけるデータの集合体ですから、上の図で言えば赤で示された「点」がデジタルデータになります。
そして、このデジタルデータをアナログ変換するというのは、この点と点を上の図のように結んでいくということです。すると、左図のようにデジタル領域だけで眺めてみれば「0dB」を超えていないように見えても、アナログデータに変換すると右図のように「0dB」を超えてしまうと言うことが起こるのです。
これがいわゆる「トゥルーピーク」と呼ばれる問題なのです。
そして、このアナログ変換の過程で発生したクリッピングした「歪み」はアンプで増幅されてスピーカーに送り込まれ、その歪んだ信号がスピーカーの振動板を動かして、その歪んだ空気の振動が部屋いっぱいに広がるわけです。
ですから、本田美奈子の「1986年のマリリン」なんかは、最初から最後まで完全にクリッピングした音を聞き続けていることになるはずですし、恐ろしいのはそういう「歪んだ音」を「迫力のあるいい音」だと勘違いしてしまうことです。
しかし、もっと恐ろしいのは、昨今の録音現場ではこんな言葉が聞かれたりするのです。
「トゥルーピークが発生していると再生時に音が歪んだりするため、基本的には0dBを超えないことが望ましいです。ですが、市販の音源でもTRUE PEAKが発生しているものも多く、0dBを超えると絶対にダメというものではありません。」
・・・って、それ絶対に「駄目」でしょう・・・。(^^;
さらに恐いのは、最近のDTMソフトにはこの「トゥルーピーク」を自動的に回避するプラグインが標準装備されるようになっているようなのです。
「今回のアップデートで追加されたTRUE PEAKとラウドネス値、ミックスやマスタリングにおいて役立つツールとなっているので、積極的に活用していきたいですね。標準プラグインがどんどんと進化していくことがほんとに嬉しく思います。」
・・・って、あたしゃ全く嬉しくないんですが・・・。(^^;
こうして、おそらくは録音現場で鳴り響いていたであろう「音楽」と、商品として私たちの手元に届く「音楽」は全く別の物になっていると思えば、いったいその「音楽(らしきもの)」の何処に「価値」を見いだして私たちは「お金」を支払えばいいのでしょうか?
結果として言えることは、「音楽」は「音楽」以外の「付加価値(例えば「AKB」総選挙の投票権)」がつかなければ「売れない」と言うことになるのは理の当然です。
そして、そんな現実を「ほんとに嬉しく思います」と宣いながら「CDは売れない」と嘆くとすれば、それは嘆く方が間違っているのです。
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」:イシュトヴァン・ケルテスス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1960年3月22~24日録音(London KICC 9201)
今さら、何もつけくわえる必要のない名演であり、同時に知る人ぞ知るの「名録音」です。
ただし、配布している音源は96年に再発された1000円の廉価盤です。盤面をよく見てみると「Made in Korea」となっていますから、韓国でプレスされたものだと思われます。ですから、この「音源」が何処までマスターテープの真価を伝えているのかは疑問ですが、波形を見る限りはつまらぬ「音圧競争」の被害は受けていないようです。
なんて素敵な「波形」でしょう!!なんだか「波形マニア」になってしまいそうです。(^^;
録音に関するクレジットも紹介しておきます。
- 録音会場:ウィーン、ソフィエンザール
- Recording producer: Ray Minshull
- Recording engineer: James Brown
ウィーンのソフィエンザールはもともとは「温水プール施設」であり、冬の間はその巨大なプールの空間を「舞踏会場」として利用していた「総合レジャーセンター」みたいな施設でした。やがて、温水プールは使われなくなり「舞踏会場」に特化していったようなのですが、それでもコンサート会場として使われるような施設でなかったことは間違いありません。
この、何とも中途半端な施設の音響特性の優秀さに目をつけたのが「DECCA」であり、50年代中頃から「DECCA」がウィーンフィルと録音するときには必ずこの「ソフィエンザール」を使用するようになりました。
そして、このホールの名前が世界に轟いたのは、ショルティ&ウィーンフィルによる「指輪」の録音によってでした。
この建物は2001年に火事によって焼失し、現在は建物は解体されてホテルやレストラン、スポーツジムなどを併設した複合商業施設として生まれ変わっているそうです。
音場表現
「DECCA」と言えば「ケネス・ウィルキンソン」と言うことになるのですが、そういうビッグネームでなくてもこれほどの「優秀録音」を実現していたと言うことです。
そして、この録音を聞き直してみて、あらためて自分のシステムの限界みたいなもの(分かってはいたつもりなのですが^^;)を再認識させられました。
それが「音場」を表現する能力です。
「音場」という概念は「音像」という概念と対のように使われるのですが、明らかに「概念」としては「音像」よりは新しいものと思われます。この「音場」は「サウンドステージ」という言葉でも表現されることもあるようなのですが、そして言葉としてはそちらの方が古いようなのですが、基本的には似たような概念だと言って良いでしょう。
「音場」とは、言うまでもなく、音楽が演奏されている「空間」そのものをどれほど忠実に再現しているかと言うことです。
ステレオ録音なのですから、楽器の配置が見えるように表現されるのは当然のことです。しかし、初期のステレオ録音を聞いてみると、まるで芝居の書き割りのように左右に楽器が行儀良く並んでいるだけで、実際のコンサートで聞くことのできる響きとはかなり異なったものになっていることが多いです。
実際のコンサートでは左右の広がりだけでは、前後と上下という三次元的な広がりを持っています。
例えば、ファースト・ヴァイオリンの奥にハープが配置されていたとします。このハープが時折、このファースト・ヴァイオリンの奥で鳴り響いているのを前後や上下の位置関係も含めて明瞭に聞き取れるシステムは滅多にありません。
もちろん、このドヴォルザークの作品にはハープは使われていませんからそういう「難場」は存在しないのですが、それでも第3楽章の冒頭部分のトライアングル(燦めくような「f」なのでこれが分からないと厳しい^^;)や第4楽章のシンバル(こちらは「mf」で控えめなのでトライアングルよりも聞き取りにくいかもしれない)などの位置関係と鳴り方はそれなりのチェックポイントでしょう。
さらに言えば、弦楽器の後に陣取る管楽器群の奥行き、高さなどもシステムの音場表現力をチェックする上で重要なファクターになるでしょう。
そして、そういう楽器が三次元空間のある一点で揺らぐことなく鳴り響くことで、それは同時にその楽器のもっている響きの美しさを再現する上で大きな役割を果たしていることにも気づかされます。オーディオ的にはこう言うのを「透過性」がよいと表現するらしいのですが、どうやら「音場」と「音像」とは一部で言われるような対立概念ではなくて、お互いがお互いを担保しあうような「概念」らしいと言うことに気づかせてくれる録音でもあるのです。
しかし、私が己のシステムの限界を感じたのはそういう部分ではなくて、実は一番基本の左右への広がりに関してなのです。
問題は、その左右への広がりは、何処まで広がっているのか?と言う問題なのです。
そして、この問題は長きにわたって論争の種であり続けた問題です。
つまりは、そこで表現される音場の広がりはスピーカーの幅を超えるか否か、と言う問題です。
当然、昔は「そんな事はあり得ない」というのが「常識」でした。しかし、しかるべくシステムを磨き上げ、そういうシステムで「然るべき録音」を再生すれば、それはまさにスピーカーの幅をはるかに超えて部屋いっぱいに広がるのです。そして、その生々しさは、例えば外から紛れ込んだ環境雑音などが録音に刻み込まれているときは、それが現実に部屋の外から紛れ込んできた雑音なのか、録音の中に刻まれた環境雑音なのかが俄には判別しがたいほどのレベルになるのです。
そして、残念なことに、私が長年にわたって愛用してきたソナス・ファベールの「エレクタ・アマトール」はそういう表現能力を備えたスピーカーではないのです。彼女は己の分を守って、表現すべき音場の広がりは自らのスピーカーの縁の範囲内にとどまる事を頑固に主張し続けます。
おそらく、この「DECCA」録音は、それなりのシステムで再生すれば、左右の広がりはスピーカーの幅を超えると思うのですが、私のシステムではかろうじて右奥のホルンがその限界を破ろうと奮闘しているのがほんの少し感じ取れるだけです。
皆さんのシステムではいかがなものでしょうか?
しばらくご無沙汰しております。ここのところずっとROMばかりでいたのですが本件少し興味がありますので、投稿させていただきます。色々と感じるところはあるのですがまとまりが悪くて申し訳ありません。と先に誤っておきます。
ここのところポピュラー関係、特にアニソンなどは、もう、この歪んだ音が「聞かせたい楽曲の音」なのではないかと感じております(ロックなどで歪んだ音をわざと出すようなもので、演奏で歪んだ音を出すのではなくて、編集で歪んだ音にする)。ただ、こういった音源はしばらく聞いていると耳と頭が痛くなってきますので、長時間は聞いていられません。
ある程度歪んでいても仕方がないのでしょうがもう少し、なんとかならないか、あまりにもひずみが多くて聞き疲れするのはいかがなものかとは感じています。ただ、ボーカルをアフレコしている場合は、システムアップをすれば何とかボーカルのみはまともに聞こえているようにはなりますが(工事現場の騒音の前でも人の歌はちゃんと聞こえる、様なものでしょうか)。
一方、音圧調整は貧相なシステムをベースに調整された結果だとは良く聞くのですが、ある程度ボリュームを売るためには仕方がない面もあるのかも知れないとも感じます。私もホームで聞く場合でも聞く部屋が貧相なのでppとffでボリュームを動かしてます。特にクラシックの場合1楽章とおして同じボリュームではほとんど聞けません。これって、結果的に聞く側で音圧コントロールしているのでしょうから、作る側もそれを配慮して作成している部分(聞きやすくまとめている部分)はあるのではないかと思います。ただやりすぎて大きく歪んでしまっては意味がないと思いますが。
加えて、ホーム以外にカーオーディオ(*)もしているのですが、カーオーディオの場合、やたら費用がかかりますが、出てくる音は正直チープです。感覚的にコスパはホームの1/10程度でしょうか。それに加えて、聞くときの環境面も暗騒音レベルがホームとは桁違いに大きいため、純正のカーオーディオでは騒音レベルに合わせてボリュームをコントロールするオートボリュームがついています。
(*)カーオーディオも色々とジャンルがあり、スピーカーを多数、それも外部向きに取り付ける音圧系(イルミなんかも付けてますね)。やはりスピーカーを多数つけ、サラウンド的にどの席でもある程度の雰囲気で楽しめる純正で多い方法。前面左右にSpを1~2組(最近は3組)とサブウーファーを後ろに取り付けるHiFi向け。などなどがあります。ここではHiFi向けのケースです。
でもやはり、ある程度の音質では聞きたいのですね。で、結構カー用の音源を作成するときにはホーム用の音源を「いじって」新たにカー用の音源を作成しております。いじるのは主として音圧部分です。運転中いちいちボリュームをいじらなくてすむように、曲の中の音圧差を少なくし、アルバムの音圧についてもなるべく均します(いきなり大きな音がでたり、音が聞こえなくなったりしないように)。
まあ、カーオーディオでよい音で聞かなくてもと、言われる気がするのですが、ホームでゆっくり聞く時間も取れないので、移動中の時間は結構貴重です。
ただ、自分で調整するのと、お仕着せで調整されたものを購入するのでは意味合いがずいぶんと異なることも分かります。
実は、ハイレゾ音源がでたとき、「正に生演奏」という宣伝文句を信じて、通常音源=加工程度の高い音源=そこそこ数量が出るので、廉価。ハイレゾ音源=加工程度の少ない音源。自分で加工するなどのマニア向け=数量が見込めないので高価。とすみ分けるのではと考えていたのですが・・・。どうもハイレゾも玉石混交で値段ばかり高い(パッケージなどのコストもかからないのに何であんなに高いのでしょうかねえ?)ものが多く、肝心の音質には疑問符がつくようなものも多イ感じがします。どうも上手くすみわけできていない感じがしております。
最後に、左右の音場ですが、これは結構カーオーディオで素晴らしいケースを聞くことができます、(奥行き感まではなかなか難しいようですが)。正直ミッドは足元。ツイーターはダッシュ、サブウーファーは後席のさらに後ろといったバラバラな配置なので、これをまとまりのよい音にして聞かせるノウハウが色々とあるのでしょう(聞くポジションに制限はあるものの)。正直その広がりには驚きますし、窓ガラスが鳴っているのかと思うと実はノイズであったということもあります。
初めて、メールします。
いつも、オーディオの記事を読まさせていただいたり、FLACをDLさせていただいてます。
オーディオを始めてから40年以上たちます。
ここ半年ほどで、オーディオに関して大きく考えが変化しました。
私は、Szell大好き前期高齢者です。
「左右の音の広がりは、皆さんのシステムではいかがなものでしょうか?」について
去年、先輩に教えてもらって、PRO CABLEというネットのお店を知って、そこの勧めるPアンプ(thomann S-75mk2)とSPケーブル(WE18GA)を購入して、SP(三菱モニターSP、2S305)に繋ぎました。USB-DAC(マランツNA8005)をPアンプ直結です。
いろいろ試行錯誤はあったのですが、部屋がコンサートホールのように感じられ、SPの存在が消えるようなことがよくあります。これは、Pアンプが全帯域にわたってSPを完全に鳴らしてSPの全性能を発揮させているのではないかと思われます。また、SPケーブル(ウエスタンエレクトリック)もPアンプの音声電流を完全にSPに伝えてるのだと思います。
PアンプもSPケーブルもマニアからすると、非常に低価格ですが、SPから音が離れ広い空間から鳴っているように感じます。先輩は、タンノイの38Cmですが、しっかり鳴っています。
ユングさんは、PRO CABLEのHPをご存知でしょうか。まだでしたら、一度ご覧ください。
プリアンプレベルの音声信号は、PアンプとSPケーブルの音声電流のSPのを制御する重要さに比べれば、そんなに音の差は少ないのではないかと思う今日この頃です。もちろんプリアンプレベルもクオリティが高ければ最高ですが。
今まで、6Nのオーディオケーブル、SPケーブル、真空管アンプ、SACDとか追求してきましたが、間違いでPアンプとSPケーブルが一番大事だと考えが変わりました。SPは30Cmですが、低音の音程がはっきり解かる様になりました。SPは38Cm2WAYだといいでしょうね。
一度、時間を見つけて試されたらいかがでしょうか。
多々勉強させていただいています。ありがとうございます。
>それなりのシステムで再生すれば、左右の広がりはスピーカーの幅を超えると思うのですが、
>私のシステムではかろうじて右奥のホルンがその限界を破ろうと奮闘しているのがほんの少し感じ取れるだけです。
当方でも同様の再生です。
まだまだそれなりに達しないということやもしれませんが、それでも意外に満足できてしまっています。
音場がスピーカーの外に出るのは最近のポピュラー音楽では珍しくない、といいいますか、そういう効果を当たり前のように使うようになっていますね。
クラシックを聴き始めて日が浅く不勉強なのですが、今回の音源はスピーカーの外に広がるという定評があるのでしょうか。当方では日頃あまり注意して聴く余裕がなく、この音源は広がるというように気付いたことがないのです。
ジャズの音源では、ワルツフォーデビーの地下鉄とおぼしき低音がスピーカーの右外側に定位するということが昔ありました(現在は、環境が変わったせいだと思うのですが聴き取れません)。これなどは、どこに定位するか室内環境によってずいぶん違う報告が当時のオーディオ関係の掲示板に上がっていました。
スピーカーの外に広がる音場というのが、実際のところ環境要因なのか音源によるものなのか、正確な再生を目指したときにどのように考えたらいいものなのか、切り分けが難しい部分があるような気がしています。
勉強させていただいております。こ掲出の波形、とても美しいですね。いまや、ヒップホップとアニソンが多数を占める音楽製作の現場では、プロデューサーやエンジニアにとって歌も演奏もデジタル素材に過ぎないのでしょう。ピッチ補正したボーカルやコンプレッサーでこれでもかとつぶしたベースとバスドラム・・・。そんな環境のなかで、自分の耳も音圧中毒になっているのではないかと、恐ろしくもあります。しかし、ライブ音楽であるクラシックには、エンジニアの味付けや音圧競争などしてほしくありません。指揮者が聴いている音や、VIP席で感じる響きをいかに再現するかで競争してほしいです。最も適した再生環境まで推奨してくれたら、どう近づけるかオーディエンスの努力しだいで、それもまた楽しいのに。