音圧競争の弊害

このシリーズを始めるときに、次のような断り書きを付しました。

「この検証においては同じ音源でもリマスターやCDの発売時期によって音質が微妙に変わりますから、検証に使って配布した音源に関してはマトリックス番号を記しておきます。」

実際、私が「Blue Sky Label」で配布している音源に対して、自分が聞いている音源とは少し音が違う、おかしいのではないか?と言う質問が寄せられることがあります。
そして、当然の事ながら、こんな断り書きに対して「デジタルデータであるCD音源がCDが変わるたびに音質が変化するなどあり得ない、何を寝言を言ってんだ!」というお叱りの声も頂きました。

考えてみれば、このシリーズの最初にその様な「大前提」を示したのは、それが当然の共通認識になっていると思っていたからなのですが、どうやら事はそれほど簡単ではないようですので、もう少しこの問題を詳しく取り扱っておきたいと思います。
そして、その事は、このシリーズの最初にやり取りをされた「ラジカセで最後の音決め」問題にまっすぐ繋がっていく話なので、あの話題を「何を言っているの?」みたいにスルーしていた人にとっても、少しは問題の本質が分かりやすくなるのではないかと思います。

音圧競争の弊害

この問題の根底に存在する最大の要因は「音圧競争」です。
ただし、こういう話は一般論ではわかりにくいので、具体的な例をあげながら考えていきたいと思います。

使用するのは「波形編集ソフト」です。今回使ったのはフリーで使用できて性能も高い「Audacity」というソフトです。
このソフトでWAVEファイルを読み込むと「波形」が表示されます。

例えば、私が愛してやまない「中島みゆき」のヒットアルバム「私の子供になりなさい」から「命の別名」を読み込んでみます。

中島みゆき「命の別名」

いささかギョッとするような「波形」が表示されるのですが、実はこれなどは昨今のポップス・ミュージックの中ではまだましな方です。しかし、これをある程度真っ当なシステムで再生すれば、音楽は最初から最後まで五月蝿いほどにガンガン鳴り響いてあっという間に隣近所から苦情が舞い込んでしまうことは容易に想像できます。
しかし、ポップス・ミュージックというのは、昔からずっとこんな「波形」だったわけではありません。

みゆき姐御のファースト・アルバムである「私の声が聞こえますか」に収録されている「時代」の波形はこんな感じです。

中島みゆき「時代(アルバム)」

「波形」を見ただけで、もう別の世界の音楽になっていることが分かります。
それでも、これはデジタル・リマスターされた音源なので、その編集過程でもとのアナログ音源にいらぬ「編集」が施されている疑惑があります。

実際、私の手元にこのファースト・アルバムのLP盤があるのですが、音質的には明らかにアナログ盤に軍配が上がります。しかし、その差はアナログとデジタルの優位性云々の問題よりは、デジタル化の過程で意図的に「劣化」させられている疑惑の方が大きいのです。

なぜならば、この「時代」はその後「ベスト盤」の中にも再収録されているのですが、そこでは次のような「波形」に変わり果てています。

中島みゆき「時代(ベスト)」

もっとも、このベスト盤はみゆき姐御が選んだ楽曲をもう一度録音し直したモノを収録していますから音源としては全くの別物です。しかし、その「波形」を見ているだけで、その音楽をどのような形で聞き手に伝えようとしているのかという「ココロ」みたいなモノは見えてきます。
この再録音した「時代」は「命の別名」などと較べればまだしもまともな「波形」ですが、それでも随分と弱音部の底上げをしてチープなシステムで再生しても「音が良いよう」に聞こえるような「編集」が為されている事が分かります。

さらにもう一つ、ポップス・ミュージックの世界では音が良いとマニアの間では評価の高い「かぐやひめ」のベスト盤の波形を幾つか紹介しておきます。

かぐや姫「22才の別れ」

かぐや姫「妹よ」

何となく雰囲気は分かってもらえると思います。

こういう音源は、それなりにしっかりとしたシステムで、ややプリアンプのボリュームを上げ気味にして聞くととても良い音がします。
しかし、チープなシステムで聞くと何となく迫力のない弱々しい音に聞こえてしまい、それではとボリュームを上げると強音部では音が割れたり歪んだりしてしまいます。

好むと好まざるとに関わらず、ポップス・ミュージックというのは一部のマニアではなくてマスを相手にしなければなりません。そして、そのマスが聞いている再生システムがチープなモノであれば、それに文句をつけるのではなくて、それを前提として、そのシステムでできる限りいい音で再生できるように「編集」せざるを得ないのです。
そして、これこそが「ラジカセで最後の音決め」問題の核心なのです。

70年代の中頃までは、クラシック音楽だから、ポップス・ミュージックだからという「区別」は録音エンジニアの中にはなかったようです。彼らは、そういう音楽のジャンルに関係なく、少しでも良い音で録音し、少しでも良い音でリリースすることに誇りを感じていました。
ですから、70年代中頃までのポップス・ミュージックを中古レコード屋で探し出してきて聞いてみると、涙が出そうなほどいい音で再生できます。
しかし、敵も然る物、今ではそういう事情は知れ渡っているので、そういう中古レコードにはとんでもない価格がついてしまうようになりました。

クラシック音楽の世界にも及んできた音圧競争

とは言え、そういう弱音部を意図的に底上げして、音楽全体をリミッター限界まで増幅することで、その音楽が本来持っている細やかなニュアンスや楽器本来の艶やかな響き、さらにはその音楽が鳴り響いている空間の表現を、「迫力」の二文字と引き替えに全て塗りつぶしてしまうような「愚」はクラシック音楽とは「無縁」だと思われていました。

しかし、何時の頃からか、CDでも発売時期によって音が違うと言うことが、最初は密やかに囁かれるようになっていきました。
始めの頃は、デジタルデータであるCDが発売時期によって音が変わるなどと言うことはあり得ないと切って捨てられていたのですが、それでも現実に聞いてみれば「音は違う」わけなので、何時までもそういう「デジタル不変の神話」にかかずらわうわけにはいかなくなっていきました。

理由は簡単でした。
まさかと思っていた「音圧競争」がクラシック音楽の世界にも密やかに侵略し始めていたのです。それも、美辞麗句で飾られた「リマスター盤」として侵略を開始したのですから実に始末の悪い話でした。

ただし、そういう話を抽象的に展開しても仕方がないので、ここでも具体例を幾つか挙げておきましょう。
俎上に上げるのはバーンスタイン指揮のマーラー盤です。

この録音はコロンビア・レーベルが誇る録音エンジニアだったジョン・マックルーアの手になるモノなのですが、彼は1980年代にワルターやバーンスタインの録音をデジタル化するときに自らの手でプロデュースを行っています。
そして、最近になって、このCD規格の離陸した頃にデジタル化されたCD(マックルーア盤)の評価が非常に高いのです。

比較するのは、このマックルーア自身がデジタル化の編集に携わったCDと、最近ボックス盤としてリリースされたCDとの違いです。

マーラー:交響曲第4番 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル 1960年2月1日録音

マーラー:交響曲第4番「第3楽章」 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル(CBS/SONY 73DC226:マックルーア盤)

マーラー:交響曲第4番「第3楽章」 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル(Sony Music/Brenstein The Symphony Edition CD31:Box盤)

マーラー:交響曲第5番「第5楽章」 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル 1963年41月7日録音

マーラー:交響曲第5番「第5楽章」 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル(CBS/SONY 73DC227:マックルーア盤)

マーラー:交響曲第5番「第5楽章」 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル(Sony Music/Brenstein The Symphony Edition CD32:Box盤)

これらは、パブリック・ドメインですから実際に聞き比べていただくことができます。

ポップス・ミュージックの世界ほどあからさまではありませんが、明らかに良からぬ「編集」の手が加わっています。そして、この良からぬ「編集」はクラシック音楽の世界にとっては致命傷になりかねない類のものなのです。

基本的に「Blue Sky Label」で配布している音源はマックルーア自身が編集に携わった音源を使っています。
しかし、残念なことに、「この迫力に欠ける音源はどこかおかしいのではないか!」というメールを良く頂くのです。
そして、そういうメールを頂くたびに、おそらくこの「音圧競争」の弊害を留めるのは非常に難しいだろうなと思ってしまうのです。

マックルーアがデジタル化した音源は、プリアンプのボリュームを通常よりは少しばかり上げる必要があります。そして、最強音部であってもリミッターがかかるところまでは余裕がありますから、再生システムに余裕さえあれば音が歪んだり割れたりすることは絶対にありません。
そして、最弱音部から最強音部まで、そのグラデーションは見事に収録されているのですから、バーンスタインの音楽が持っている細やかなニュアンスは一切犠牲にはされていません。
しかしながら、それを実際に感じとるためには「再生」という行為へのある程度の「献身」が必要不可欠です。

「私は音楽を聞くのであって音を聞くのではない」などと言うもっともらしい言葉と引き替えにその「献身」を厭う人には、音楽はその演奏と録音の中に封印されている「真実の姿」を決して現してはくれないのです。

とは言え、ここで述べたことは既に多くの人によって語られてきた内容であって目新しいことは何もありません。少なくない人々にとっては当たり前のことを、こうしてもう一度取り上げて話題にしなければならないところにこの問題の根の深さを感ぜずにおれません。


5 comments for “音圧競争の弊害

  1. 2017年3月27日 at 10:20 AM

    おっしゃる通り!
    ですから、アップされてる各音源の原盤(レーベル・レコード番号・発売年)を明示するのが有効だと思うのです。
    可能ならエンジニア名、さらにはリマスター担当者の名前も。
    おまけにジャケットまで載せていただければこれほどありがたいことはない。素晴らしいデータベースとなります。
    (作業が煩雑になって大変でしょうけど…)

    • yung
      2017年3月27日 at 8:56 PM

      可能ならエンジニア名、さらにはリマスター担当者の名前も。

      はい、その通りで、次回からはこの録音エンジニアとレーベルとを関連づけて「深掘り」をしたいと考えています。
      LP時代にしろ、CD時代にしろ、ソフトには演奏家は大きくクレジットされていても、録音エンジニアは全く持って黒子の存在でした。しかし、考えてみれば、優秀な録音エンジニアがいてこそ演奏はその真価を聞き手に伝えることができるのですから、指揮者やオーケストラと同じ大きさでクレジットされるべき存在だったのです。

      そして、演奏家にもマエストロがいたように、録音エンジニアにもマエストロがいたのです。それは、「このエンジニアならば間違いはない!」と信頼できるマエストロ達だったのです。

      とは言え、先の長い話なので、ポチポチ更新していきたいと思います。

  2. 如月
    2017年3月28日 at 2:46 PM

    その通りだと思います。今はもうクラシックも、音圧競争の埒外ではありません。
    ピアノの録音にも、この頃はリミッターを入れています。例えば、原田英代の2010にイエスキリスト教会で録音した「さすらい人幻想曲」は、聞いていて何か変だなあと思い、音声編集ソフトで確認したら、綺麗に上限が-3dBFSぐらいで抑えられていました。

    太鼓の録音ではリミッター入りは見た事があり、これは仕方ないだろうなあと思っていましたが、ピアノでのリミッターは聞いていても変さが分かります。これはauditeの輸入盤で、演奏家と録音場所からして、かなり力を入れた録音のはずですが、ピアノにリミッターでした。

    やっぱりラジカセで最終確認したのかな、としか思えません。そこそこの再生装置で、それなりの音楽的経験があるのならば、これはおかしいと気付く筈です。私は時々コンサートに出かけるぐらいの音楽的素人ですが、今までに聞いた他のピアノの録音と較べるならば、これには違和感がありました。

    良い録音も勿論沢山ありますが、一つでもこういうのがあると、一体どうなっているのかと思います。そしてこの傾向が、ますます悪化していくのは確実です。

  3. benetianfish
    2017年3月28日 at 6:07 PM

    ふと思ったのですが、MP3 などのメタデータに再生時の増幅情報を埋め込む事はできないのでしょうか。つまり、音源自体の音圧は上げすぎず、例えば「再生時、ディフォルトでは+25%の増幅をしてね!」という情報がメタデータに入っていれば、ソフトウェア側でその情報を処理してくれれば、一般的な再生環境では「メリハリのある」音楽になります。そして、生の音源をそのまま聞きたい人は、ソフトウェア側で増幅処理を無効化すれば良いのです。

    サウンドエンジニアレベルの人であれば思いつきそうな事ですが、MP3などの規格を制定するときに、このようなアイデアは出なかったのでしょうかね。もちろん、今からこれをやるとすれば、ファイルの規格改定やソフトのアップデートなど、いろいろ大変だとは思いますが。

  4. 出羽の里
    2017年4月2日 at 12:51 AM

    ブルースカイラベルを聴いて約10年にもなります。いろいろお世話になり、改めて感謝申し上げます。
    さて、10年前の私の聴き方を思い出すと、ダウンロードしたMP3音源をもとにCDを焼き、まさに今話題のラジカセで聴くというもの。ちなみに我が書斎のラジカセの価格は1万円未満。1950年代の録音なんて、音質劣悪で聴けたものではなかったと思いだしてしまいます。
    その後、安いDACとアンプとスピーカーを買い、アップグレードした気分(両方合算して10万円少々)。このときに、聴きものにならなかった1950年代の録音が俄然よくなりました。このおかげで、同時期の室内楽にはとても感激して聴いていた記憶があります。
    最近は生演奏を聴くことが多くなり、生演奏と我がオーディオ装置の貧弱さに呆れています。生演奏で得たイメージと、我がオーディオ装置から出てくる音を比較し、スピーカーから出た音を脳内で補正。こんな聴き方。
    そろそろオーディオシステムに追加で資金を投入するのか、それとも生演奏の追っかけをするかですかね。悩ましい。とりあえずスピーカーを具体化して、次にアンプ、そして最後はリスニングルームの音響特性の修正かな・・・。

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