Christopher Parker(2)~エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38

前回はパーカー君がステレオ録音の実験期にどれだけ素晴らしい仕事をしたのかと言うことを強調するために、ダグラス・ラーターを少しばかり悪く言い過ぎたかもしれません。
実は、ステレオ録音の方は「失敗」だったのですが、モノラル録音の方は「極上」とも言うべきレベルの録音に仕上がっていたのです。

ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73 1955年5月24日~25日録音(MONO) カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 [Karajan The Conplete EMI Recording Volume1(CD20)]

おそらく、ここにこそEMIがステレオ録音に乗り遅れた最大の理由がありました。

当時のオーディオシステムというのはスピーカーが1本でした。
モノラル録音なのですから、音の出るスピーカーは1本だけあれば事足りたのです。
そして、そう言うシステムを「何と貧弱なシステムで音楽を聞いていたのだろう」と評価したのならば、それは大きな誤りです。

現行の2チャンネルシステムでモノラル録音を十全に再生することは不可能とは言わないまでも、とてつもない困難が伴います。
何故ならば、モノラル録音というのは一本のスピーカーだけで再生されることを前提として音作りが為されているからです。

そう言うモノラル音源を普通の2チャンネルシステムで再生すると、部屋の影響なども受けて左右のスピーカーから発せられた音は空間上の1点でぴたりと重ならないのが一般的です。
結果として、2つの絵が微妙にずれて重なり合うように、音像はもまたずれて重なるので滲むのです。

ですから、2チャンネルシステムでモノラル録音を十全に再生するためには、左右2つのスピーカーから同時に音を出して、それがまさに空間の一点でぴたりと重なり合うように工夫と対策を積みかねて再生しなければいけないのです。

しかし、それがどれほど困難なことであるかは、少しでもオーディオに真面目に取り組んだ人ならば容易に理解していただけるはずです。
音の入り口から出口に至るまでの左右の特性が完璧とまではいかなくてもそれなりにに揃っている必要がありますし、何よりも部屋の影響を完全に排除して1点に重ね合わせる事が必要となるからです。

つまりは、現行の2チャンネルシステムのオーディオで、モノラル録音の良さを十全に再生できている人は殆どいないのです。
その結果として、モノラル録音の持っている良さは、ステレオ再生がデフォルトの今となっては十分には理解されていないのです。

モノラルからステレオに移行するときに、商業的にネックだと感じられたのは、「新しい技術」を受け入れるためにユーザーがもう1台のアンプとスピーカーを用意してくれるかどうかでした。
しかし、ステレオ録音を前提とした再生システムではモノラル録音の良さがスポイルされてしまう事への躊躇いも大きかったのではないかとも思われます。

とりわけ、膨大な良質のモノラル録音の音源を抱えていたEMIのようなレーベルにしてみれば、モノラルからステレオに軸足を移すことはそれらの遺産をなかば放棄することのように感じられたはずです。

モノラル録音の良さを引き出す方法

しかし、きちんとモノラル録音を再生すれば、本当にお前が言うように2チャンネルシステムとは違う世界がひろがるのかと疑問が残る人もいるでしょう。
ならば、試してみることをお勧めします。

実際、このやり方でモノラル録音専用の再生システム組んでおられる方もいるようです。
やり方は簡単で、要はスピーカーを1本だけにすればいいのです。ただし、問題はモノラルのプリアンプやプリメインアンプというのが殆ど存在しないことです。

そこで、通常のステレオ仕様のアンプで1本のスピーカーを再生する方法を紹介します。
必要なのはバイワイヤリング接続が可能なスピーカーです。

以下の図ではプリとパワーを使っていますがプリメインアンプでも理屈は同じです。左右の出力をそれぞれスピーカーの高域側と低域側に接続するだけです。
これで電気的には問題がないはずです。

モノラル再生

私は、以下の接続で2台のパワーアンプを使ってステレオ再生をしています。ですから、片方のパワーアンプの電源を切れば、擬似的にモノラル仕様に変わります。

これでステレオ再生、片チャンネルをオフにすれば擬似的にモノラル専用になる

そして、この擬似的なモノ専用のシステムでも率直に言って世界が全く変わります。

ステレオ再生では微妙に左右からの音像がずれて音像が滲んでいたことがよく分かります。その滲みが取れた世界はひっそりとはしているのですが、一種独特の味わいのある世界がひろがります。
そして、その滲みによって覆い隠されていたディテールが浮かび上がってきます。
モノラル録音というのは世間一般で思われているよりは解像度が高い録音だったのです。

そして、こういうモノラル録音の世界を聞いてしまうと、先のはっきりと見えない「ステレオ」などと言う世界に飛びつかなくとも、これはこれで充分じゃないかと思ったのは無理もないかと思うのです。

ただし、時代は戦後の荒廃を乗り越えて社会が膨張していく時代であり、ユーザーの多くにパワーが溢れていました。そのパワーはもう1台のアンプとスピーカーを用意するという壁をいとも容易く乗り越えていき、そこにひろがった新しい世界は古いモノラルの世界をあっという間に駆逐していったのです。
おそらく、EMIが一番読み違えたのは、そう言う社会に充満していたパワーだったのです。

しかし、こんなモノラル録音を聞いていると、それでも「これでいいじゃないか」と思ってしまいます。

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 BWV 1004 (Vn)ヨハンナ・マルティ 1954年7月24日~26日録音

ヴァイオリン1挺で描き出す世界ならば、スピーカー1本で描き出すモノラル世界の方がピッタリではないかと思ってしまうのです。
ステレオ録音されたヴァイオリン1挺の世界であっても、それを空間の1点でぴたりと重ね合わせるのは至難の業です。

その意味では、スピーカーのセッティングや部屋の調整などを詰めていく上では絶好の音源かもしれないのですが、その判断のスタンダードとして、こういうモノラルの世界を頭に入れておくのもいいのかもしれません。

エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38 (Cello)ジャクリーヌ・デュ・プレ ジョン・バルビローリ指揮 ロンドン交響楽団 1965年8月19日録音 [Du Pre: Complete Emi Recordings CD1]

20世紀の録音史における金字塔とも言うべき録音なのですが、EMIはどれほどの意気込みを持ってこの録音に臨んだのでしょうか。

たとえば、DECCAによる「指輪」の録音には、20世紀の録音史における金字塔と言えるような「偉大なこと」を成し遂げようという意気込みがありました。
しかし、そう言う「意気込み」のようなものはこのデュ・プレの録音にはなかったことは明らかです。

確かに、エルガーという作曲家はイギリス人にとってはとても大切な存在ですが、世界を相手にセールスをするとなればマイナーな作品だと言わざるを得ません。
ですから、ソリストには20才になったばかりのデュ・プレを起用したのでしょう。

確かに、僅か16才でデビューしたデュ・プレは天才少女として注目を浴びていましたが、この手の天才少女や少年はゴロゴロ存在するのがこの世界です。その「天才」の殻を脱ぎ捨てて本物の音楽家にまで成長していくのは一握りです。
そして、このエルガーの協奏曲は、そう言う天才少女が本物の音楽家へと脱皮していく中でみせた奇蹟の瞬間でした。

しかし、その奇蹟の瞬間をEMIが期待していたとは言えないでしょうし、何よりもそんな瞬間を狙って切り取ることが出来るような人はこの世には存在しないのです。

そういう事情を悪意を持って読み取れば、それ故に録音エンジニアにパーカー君が割り振られたと言えます。
パーカー君の業績を少しばかり調べてみたのですが、彼がEMIにおいて確かな地位が築けるようになったのはプレヴィンとのコンビで優秀録音を次々とリリースしていくようになってからでしょうか。ですから、この60年代中頃は(想像にしか過ぎませんが)いまだ力を十分に発揮する場に恵まれていなかった時期だったのではないでしょうか。

しかし、結果としてはその事がデュ・プレにもエルガーにも幸運を呼び込むことになりました。

ここには、ひたすら無心に、自分の持てる力の全てを注ぎ込んでエルガーと向き合った少女の姿がありました。
そして、そう言う少女の姿を目の当たりにして、それを必死でサポートした偉大なるバルビローリとフィルハーモニア管の面々がいました。
さらに言えば、キングスウェイホールという録音に適した素晴らしい会場と、それら全ての力が合わさって実現した素晴らしい響きを見事にすくい取る能力を持った録音エンジニアがいたのです。

キングスウェイホール:バルビローリとヂュ・プレによる歴史的録音の様子

つまりは、奇蹟というものは、全てのものがまるで神の導きによって引き寄せられるように一つの場所に集まることで成し遂げられるのです。

何度も言いますが、協奏曲の録音というのは難しいものです。それがチェロというような弦楽器であれば、ソロ楽器とオーケストラのバランスを整えることの難しさは大変なものです。

その意味では、この録音は明らかにチェロ寄りに音を拾っています。ですから、実際のコンサートで聞くよりはチェロの音像と音量は大きめにとらえているので、作り物めいた部分があることは否定しません。
ワンポイント録音による自然な音場表現というピューリタン的立場に立つならば邪道と言えるかもしれないのですが、ジャクリーヌ・デュ・プレと言う一人の少女が奇蹟を成し遂げた瞬間を刻み込んだものだとするならば、これ以外の音作りは考えられないと思います。

CDにしてもLPにしても、普通は作品名や指揮者などの演奏家のクレジットを確認して買うか買わないかを決めるものです。
しかし、そこにもう一つ、録音エンジニアまで確認して最終決定するというのも賢い選択肢です。

その意味で言えば、音が悪いと言われるEMIにあって「録音エンジニア Christopher Parker」というのは、一つの安全安心のマークと言えるのかもしれません。