DeccaのKenneth Wilkinson~ブラームスのピアノ小品(Op.117,Op.118,Op.119)

優秀録音の優秀さとは虚仮威しの道具ではない

クラシック音楽の録音史を振り返れば、MercuryのWilma Cozart(ウィルマ・コザート)、RCAのLewis Layton(ルイス・レイトン)、DeccaのKenneth Wilkinson(ケネス・ウィルキンソン)の名前は絶対に外せないでしょう。それに続くのが、EMIのChristopher Parker(クリストファー・パーカー)、ColumbiaのJohn McClure(ジョン・マックルーア)あたりになるでのしょうが、この辺りになると幾つか異論はあるかもしれません。
と言うことで、最後の最後まで取り置いていたのがDeccaのKenneth Wilkinsonです。

Kenneth Wilkinson

ところが、そこで最初に取り上げたのがブラームスのピアノ作品、それも最晩年の小品集とは一体何を考えているんだと言われそうです。

Kenneth Wilkinsonの名前と結びつけて語られるのが、ショルテ&シカゴ響であり、さらにはスター・ウォーズの音楽でしょう。確かにそれらは全てとびきりの優秀録音であり、そう言う世評に対してへそ曲がりの姿勢を取りたいというわけではありません。
そうではなくて、それらの音源は残念ながらパブリック・ドメインになっていないので、言葉で説明することは出来ても実際の音源を配布して検証してもらうことは出来ないのです。

ですから、このコーナーでは外さざるを得ません。
しかし、理由はそれだけはありません。

ウィルキンソンついてふれているページで、ショルティ&シカゴ響による「ツァラトゥストラはかく語りき」を聞いて、その録音の凄さに心底驚かされたとしながらも、演奏そのものには感心しなかったと書いておられる方がいました。
この演奏の判断については脇においておきますが、ここで一つ疑問がわいてきます。

Deccaの録音風景

優秀録音の優秀さとは、あの「ツァラトゥストラはかく語りき」の導入部が要求するような音響を見事に再現するだけのものなのでしょうか。
あの地を這うようなC音の上にトランペットが突き抜けていくような場面を再現するだけが録音の優秀さなのでしょうか。

「私は音楽を聞きたいのであって音を聞きたいわけではない」という人がよくいます。
そう言う人たちが一番の槍玉に挙げるのが、こういうサウンドを聴いて喜んでいるオーディオマニアの姿です。

もちろん、そう言うピアニシモの最低音からフルオーケストラの壮大なトゥッティまで駆け上がっていく場面を見事に再現してみせることは録音と再生システムの優秀さの証しであることは事実です。
ですから、そう言うことに情熱を注ぐことは否定はしません。

しかし、音楽にとってその様な場面はごく僅かの領域にしかすぎず、この長大な交響詩を十全に再現するためにはさらに多くの要素をクリアする必要があります。

ところが、この導入部だけ再生して、「あとは退屈な音楽が続くだけやネン!」といってストップボタンを押してご満悦の人を何人も見たことがあります。
そんな様子を「音楽を聞きたい人」たちが見れば「軽蔑」の対象でしかないことは明らかです。

そして、注意が必要なのは、Kenneth Wilkinsonの優秀録音にはその様な虚仮威しの道具として使えるものがあまりにも多いと言うことです。
しかし、彼が残した録音の「優秀」さはその様な虚仮威しの道具として使える部分にあらわれているのではなくて、音楽が持っている素晴らしさを余すところなく聞き手に伝えようとする誠実さにこそ存在するのです。
そこのところを誤らないようにすることは彼の録音を検証するためにはとても大切なことであり、それ故に、まず最初は地味なこと極まりないブラームスのピアノ作品を取り上げたのです。

(P)ジュリアス・カッチェン:1962年5月録音

  1. ブラームス:3つの間奏曲Op.117
  2. ブラームス:6つのピアノ小品Op.118
  3. ブラームス:4つのピアノ小品Op.119

とは言え、こんなボソボソと繰り言を繰り返すような音楽を取り上げて優秀録音とは何を考えているだんだと言われても仕方がないかもしれません。

こんなもの、ピアノの前に適当にマイクをおいて録音すれば、だれがどうやっても大差はないだろうという感じです。
特に、作品117の「3つの間奏曲」なんて、ポツリポツリとピアノが鳴るだけで、録音の優秀さを判断するときの幾つかの要素、例えば音場感と定位、分解能、さらにが楽器の響きのリアリティやダイナミクスなど、誰がどう録音しても差が出るとは思えない音楽です。

Julius Katchen1

しかし、ピアノの響きというのは、私の狭い経験の範囲の中で考えても、意外と再生が難しいです。
まず、ピアノというのは一度鍵盤を押してしまえば、後はどうあがいてもその響きは減衰していくだけです。鍵盤をどれだけ押しつづけようと、ベダルを踏み続けようと、違いが出るのは減衰の仕方であって、減衰していくという「宿命」から逃れることは出来ません。

さらに言えば、弦楽器や管楽器というのは旋律を一本のラインと描き出すことが可能ですが、ピアノというのは原理的にはデジタルデータのように孤立した一つずつの音符の連なりとしてしか表現できません。そして、その一つずつの響きは全て減衰していくのであって、その減衰していく響きをピアニストはコントロールしながら一本のラインとなるように描き出していくのです。

しかし、問題はさらに複雑であって、左手が伴奏で右手が旋律というような単純な形であっても、ピアノでは複数の声部が同時に鳴り響くのであって、それ故にその複数の声部をどのように響かせるのかは十分に考え抜いておかなければ十全な結果を得ることは出来ません。
それが、3声や4声という複数の声部が対位法的に絡み合いながら進行する音楽ともなれば、1本のラインの中においても、または重なり合う複数の声部との関連の中においても、減衰して消えゆく響きと立ち上がってくる響きをどのように重ね合わせていくのかと言うことは、よほど慎重に考え抜き、そしてその考え抜いたことを現実の響きに変換する高度なテクニックがピアニストにはなければ、何をやっているのかわけが分からなくなってしまいます。

そして、その事は録音する側にも求められるのであって、そう言うピアニストの大変なチャレンジと献身にこたえて、すくい取るべき響きを何一つ取りこぼすことなく録音することが求められるのです。それは言葉をかえれば、エンジニアにも演奏家と変わらない耳の良さが求められるのです。

ボソボソとした繰り言のような作品117の間奏曲集は、シンプルなように見えながら、そう言う複数の声部が重なり合う響きをよほど精緻にコントロールすることを要求しています。それに続く、作品118と119の小品集はもう少し華やかさに溢れた部分が垣間見えるのですが、それでも、それらは全て易しそうに見える場面であっても、かなり高度な対位法の技術が投入されています。
それは、パッと聞けば誰をも圧倒するような「ツァラトゥストラはかく語りき」の導入部のような凄さとは対極に位置するものですが、音楽が持っている素晴らしさを聞き手に伝えるためには最も必要な要素です。

そして、少しばかり嫌みを許してもらえるならば、そう言う精妙な響きを再生するためには録音する側にも再生する側にもそれなりの献身が求められます。
そして、そう言う微妙な響きをスポイルされた状態でこのような音楽を聞いるとすれば、そこに込められたピアニストのチャレンジと献身が十全に聞き取れるでしょうか。

とは言え、これをケネス・ウィルキンソンの優秀録音として最初に持ってくることには異論もあるでしょうが、これはDECCAがカッチェンとウィルキンソンのコンビで取り組んだブラームスのピアノ作品の全曲録音です。
LPは「Vol.1」から「Vol.8」までの8巻セットしてリリースしたものですから、その意気込みの成果は是非一度確認していただければと思います。

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