オーディオが全盛期だった時代は国内ブランドも元気でした。
大手家電メーカーもそれぞれにオーディオ専用のブランドを立ち上げて製品開発を進めていました。
三菱はダイアトーン、ナショナルはテクニクス、東芝はオーレックス、日立はローディ、シャープはアウビィと言うような感じでした。それから、ソニーはそのまま「ソニー」でした。
この中で、ブランドが途中で途切れることなく現在まで継続して製品をリリースし続けているのは「ソニー」だけでしょうか。
そして、今から振り返ってみれば、そう言う大手家電メーカーが生み出したオーディオ機器というのは、概ね「つまらない」ものが多かったように思われます。
確かに、彼らが生み出すオーディオ機器の物理特性はどれをとっても素晴らしいもので、はるかに高価な外国ブランドの物理特性を上回っていました。
しかし、ほとんどのユーザーは物理特性に劣る外国製品の方が「音がよい」と判断して、財布が許すならば躊躇わずにそちらを購入していました。
国内メーカーの技術者達にとってその現実は我慢のならないことだったようで、一部ユーザーのその様な振る舞いに対して「舶来品かぶれ」などと批判していたものです。
しかし、今になって振り返ってみれば、その当時の技術者に決定的に欠けていたものがはっきりと見えてきます。
彼らは「音楽」を聞くという習慣を全く持たない人達だったので、製品の良否を「音楽」ではなくて「数字」で判断してしまったのです。
しかしながら、「音楽」というのはとんでもない「複雑系」です。
その「複雑系」の正体を見極めるのに「物理特性」というきわめて「大雑把」な物差しで判断してしまうという「誤り」を犯してしまったのです。
その大雑把な物差しで製品の最終的な良否を判断していたのですから、よほどの僥倖にでも恵まれない限り「音の良い」製品などは出来るはずはないのです。
いささかきつい言い方になるかも知れないのですが、その様な製品を(敢えて言えば)粗製濫造したことが、オーディオという趣味の世界を先細りさせた要因の一つとなった事は否定できないのです。
では、どうすればよかったのでしょう。
それは実に簡単なことで、製品の最終的な良否を「数字」ではなくて「耳」で判断すればよかっただけのことです。
確かに「物理特性」を無視して製品開発は出来ないのですが、最終的な判断は「耳」で行うべきなのです。もちろん、その「耳」とは「音」を正確に捉えるだけでなく、何よりも「音楽」を見極めることの出来る「知性」と「感性」をも含んだ「耳」です。
オーディオ機器が音楽再生を目的としている限り、その良否の判断基準となるのはコンサート会場で鳴り響いている「音楽」です。
その音楽的感動にどこまで迫れるかがオーディオ製品の良否を判断する最終基準なのです。
ですから、オーディオ製品の開発には少なくとも最後に「耳」で判断できる人が必要であって、その人に「最終権限」を与えることが絶対に必要なのですが、大手家電メーカーのような巨大な縦社会でそれを期待するのは無理だったと言うことなのです。
ましてや、理系男子ばかりのオーディオ技術者というのは「音楽」などは聞かない集団なのですから(一般論としてですよ^^;)、最後は「耳」で判断しろといってもそれは無理な話だったのです。
その意味では、新たに復活したテクニクスブランドでは、小川理子という、音楽家としての顔も持つ人物がプロジェクトリーダーになって最終権限を持ったことは画期的でした。
しかしながら、ここまでお読みいただいた方の大部分は、どうして今頃になってそんな「知れきった」話を蒸し返すのだと疑問に思われているはずです。
実は、本題はここから始まるのですが、その本題に入る前に、「音楽を判断できるのは「耳」だけであり、決して「数字」ではない。」と言う「知れきった話」を再確認しておきたかったのです。
「フォーマット」という数字に翻弄される愚かさ
何故ならば、最近はハードよりはソフトの方でこの「数字」が一人歩きはじめているように見えるからです。
確かに、昔からもソフトに数字はついて回っていたのですが、それはもう可愛いものでした。
SP盤からLP盤に変わることで、片面の再生時間が5分前後から30分前後になりました。
モノラル録音からステレオ録音に変わることでチャンネル数は「1」から「2」に増えました。70年代にはいると「4チャンネル」なんていうレコードも発売されました。
その程度の可愛い話だったのです。
ところが、録音のフォーマトがアナログからデジタルに切り替わり、さらに「ハイレゾ」と言うことが喧伝されはじめると「数値」にまつわる話は一気に賑やかになりました。、
まずスタート地点は「16bit 44.1KHz」というCD規格だったのですが、「16bit」では荒すぎる、「24bit」くらいはないと、いや「32bit」が必要だ、みたいな感じです。
これがサンプリング周波数になると、「44.1KHZ」なんて論外、これからは「48KHz」だよと言うところから始まって、後は「96KHz」「192KHz」、アップサンプリングするときは「44.1KHz」の整数倍の「88.2KHz」「176.4KHz」、いやいや最終的には「384KHz」でないと話にならないよと、まさにバナナのたたき売り状態です。
さらには、PCMでは駄目、DSDでなければ「ハイレゾ」ではないみたいな話も出てきて、さらにはそのDSDも「2.8MHz」「5.6MHz」「11.2MHz」と数字のオンパレードです。
ですから、もういい加減に気付くべきなのです。
繰り返しますが、音楽を判断できるのは「耳」だけであって、「数字」は何も担保しないのです。
そして、その「耳」が判断の基準とするのは、どこまで行っても実際にコンサートホールで鳴り響いている「音楽」なのです。
「DSD 11.2MHz」というような、取りあえずは最先端とされる数値を持ってきたとしても、その数字は必ずしも「すぐれた音楽が録音されている」事を保証しないのです。
ラフマニノフ:チェロ・ソナタ ト短調 作品19 (Cello)ザラ・ネルソヴァ (P)アルトゥール・バルサム 1956年5月録音
ピアノやチェロという単独の楽器で演奏される音楽ならば「モノラル録音」であることは大きなハンデにはならないという話をしてきました。
そうなると、どのあたりで「ステレオ録音」の優位性がはっきり主張できるようになるのかを見極めてみたいと思うようになってきました。
このがっちりとしたチェロの逞しい音像はモノラルならではの魅力です。
これがステレオ録音になると残響成分がまとわりつくためなのか、どうしても響きが薄味になってしまいます。
そして、バルサムのピアノもきわめてクリアにその響きが捉えられていて、チェロとの分離も上々なので、モノラルにありがちな窮屈さもそれほど感じません。
そして、ワンポイント録音の功徳だと思うのですが、モノラルでありながらもそこはかとなく音場感も感じ取れるような気がします。
モノラルの時代からDeccaは既に一歩前を言っていたのです。
録音クレジット
- Recording Location : Decca Studios, West Hampstead, London, May 1956
- Recording Producer : James Walker
「チェロ・ソナタ」や「ヴァイオリン・ソナタ」という音楽形式は、ピアノとチェロ、ピアノとヴァイオリンという二つの楽器で演奏される最もシンプルな合奏のスタイルです。
こういうスタイルの作品は、舞台に向かって「右側にピアノ、左側にチェロ」、もしくは「奥にピアノ、前にチェロ」という配置が一般的です。
そう言う異なる配置をとったときに実際のコンサート会場ではどのように聞こえるかと言うと、私の経験上ではほとんど差を感じません。
ピアノとチェロを左右配置にしても、右からピアノの音が聞こえ、左からチェロの音が聞こえると言うことはありません。その聞こえ方は奥にピアノ、前にチェロを配置したときの聞こえ方とほとんど変わりません。
つまりは視覚的には「ステレオ」としてレイアウトされていても、コンサート会場での聞こえ方は「モノラル」的であって、チェロとピアノが渾然一体となってコンサート会場の真ん中に立ちあらわれるのです。
ですから、ステレオの時代に入っても、チェロとピアノを左右に振り分けるようにレイアウトしている録音は思い当たりません。
あれば、是非聞いてみたいと思うのですが、おそらく随分と気持ちの悪い「音楽」になっているものと想像されます。
そして、アナログの時代においては「音場」という概念もほとんどなかったので、チェロとピアノという二つの楽器がコンサート会場において立体的に織りなす響きが聞けることもほとんどありませんでした。
そうなると、上で紹介したような優秀なモノラル録音であるならば、ステレオ録音に対するハンデはそれほど大きくないように聞こえるのです。
確かに、ハイレゾと言うことが喧伝されるようになった頃から「音場」という概念が表舞台に現れ、ソフトの方もそれを強く意識した録音が為されるようになりました。
しかし、そう言う「音場」重視の録音は、バーター関係かも知れないのですが、個々の楽器のボディ感が希薄になっていくことは否定できませんでした。それ故に、それがいかに「優秀録音」だと宣伝されてもどうしても納得できない自分がいたのです。
問題はここで発生しているのだと思います。
片方は50年代のモノラル録音です。
それに対して、「DSD 11.2MHz」という最高水準のハイレゾ音源を持ってきて、どちらが優秀録音なのかは問う事は愚かでしょうか。
いやいや、お前は何を言っているんだ、言っていることの意味が分からない、気は確かか・・・?と言われそうですね。
しかし、その気は確かかと問い返される根拠が「DSD 11.2MHz」という「数字」だとしたら、はいそうですねと引き下がることが出来るでしょうか。
私は引き下がることは出来ないのです。
かつて、オーディオ機器の開発者達に「音楽」を聞く「感性」を求めたのならば、音楽ソフトを受け取るユーザーにも同じように音楽を聞き分ける「感性」が必要なはずです。
そこでは、一切の「数字」は排除して、虚心坦懐に「音楽」に耳を傾けたときに、本当に素晴らしい「音楽的感動」を与えてくれるのは何なのかを見極める義務があるはずです。
私がこの事をはじめて痛感したのは、十全な環境で再生されるSP盤を聞いたときでした。
そこで再生される音を周波数特性などと言う「数字」で判断するならば、おそらくは低域も出ていない、高域は完全に欠落しているという「惨憺」たるものでした。そんな事はいちいち測定するまでもないほどに自明なことでした。
しかし、そこから流れてくる音楽は間違いなく「本物」でした。
ならば、本物と判断した「耳」を信じるのか、それとも周波数特性という「数字」を信じるのかと問われれば、躊躇わずに「耳」を信じるべきなのです。
そして、これは録音エンジニアにとってはどうしようもないことなのですが、録音現場で鳴り響いている音楽が何の「音楽的感動」ももたらさないものだとすれば、どれほどの手段を講じても「優秀録音」は出来ないということも見ておく必要があるのです。
おそらく、最近のハイレゾによる「優秀録音」のつまらなさのかなりの部分が、この「どうしようもない現実」に起因していることは指摘しておく必要があります。
演奏家の皆さん、ごめんなさい・・・m(_ _)M・・・でも、どうしてもそうとしか思えない「優秀録音」があまりにも多いのです。
いや、それは「音楽」にまで責任を持つべきプロデューサーの責任でしょうから「仕方がない」と言ってはいけないのかも知れません。
よく言われるように、クラシック音楽の世界は「黄金の50年代、銀の60年代」なのです。
その事だけで、50~60年代の録音は大きなアドバンテージを持っていると言うことです。
ならば、さらにもっと視野を大きくとって聞く人に大きな音楽的感動を与えてくれる録音を探っていく必要があるのではないでしょうか。