「TAS Super LP List」への疑問~プロコフィエフ:スキタイ組曲 アンタル・ドラティ指揮 ロンドン交響楽団 1957年7月録音

この演奏と録音に関しては、とりわけオーディオファイルの方からは圧倒的な賛辞が寄せられてきました。
「TAS Super LP List」においてもとびきりの最優秀盤であることを示す「BEST OF THE BUNCH」の地位を譲ることはありませんでした。

プロコフィエフ:スキタイ組曲 アンタル・ドラティ指揮 ロンドン交響楽団 1957年7月録音(マーキュリー・リヴィング・プレゼンス~コレクターズ・エディション CD7)

しかしながら、希有の「凄い音」を聞くことのできる録音であることは間違いないのですが、それをどのように評価すべきなのかは悩みます。
もっと突っ込んで言えば、ここでは音楽における録音の果たすべき役割についての哲学的考察(^^;が求められます。

まず一つめの問題点は、この録音は再生する側のシステムを選ぶ事から引き起こされます。

「TAS Super LP List」を選定した「ハリー・ピアソン」が使用していたスピーカーは「Genesis 1」という巨大な代物であり、それを大音量で再生するのが彼のポリシーでした。
この「Genesis 1」は20Hzまでフラットに延びている事を保証する巨大システムであり、そのようなシステムで大音量再生したときにその本領を発揮するのがこのスキタイ組曲のMercuru盤なのです。

何を言いたいのかと言えば、これを「最優秀録音盤」とリストアップされても、それがどれほど凄い録音なのかはほとんどの人にとっては「想像」するしかないのです。
「Genesis 1」のPriceは30万ドルですから、それを駆動するに相応しいアンプ、プレーヤー、さらにはそれらをおさめることの出来るリスニングルームまで勘定に入れれば全体で100万ドル程度は必要なはずです。

Genesis 1

もちろん、この録音の真価を知るためにはそこまでのシステムが必須だというわけではないでしょうが、それでもある程度の耐入力があり、さらに低域方向にも十全に延びている大型のシステムは必要なはずです。

普通のシステムで音楽を聞いている普通の感覚の持ち主ならば、冒頭の音が飛び出した瞬間に思わずプリアンプのボリュームを絞るために腰を浮かずはずです。
そこで、「いや、もう一頑張り!」とこらえても、次にやってくる床を響かせるようなグランカッサの一撃を食らっては、スピーカーを守るためにボリュームは下げざるを得ないでしょう。

しかし、そこでボリュームを下げてしまってはこの録音の本当の凄さは分からない、と言われるのです。
つまりは、私のような華奢なスピーカーを使っているものにとってはもっとも相性の悪い録音なのです。

ですから正確に表現すれば「素晴らしいだろうと想像される録音」となるのです。(^^;

そして、ここから先は「想像」の域を出ないのですが、その様な特別なシステムでなければ実現できないような音が、実際のコンサートで鳴り響いているのかという疑問が湧いてきます。
時々、はじめてオーケストラを聴くという人を案内することがあるのですが、そのほとんどの人は「想像」というか「妄想」というか(^^;、つまりは思っていたよりもはるかに小さな音なので驚くのです。
例えば低音フェチのオーディオファイルが大好きな「ドスン、バスン」というような音は実際のオーケストラからは聞こえてこないのです。

つまりは、実際のオーケストラからは決して鳴り響かないような音を実現して、それを優秀録音と評価していいのだろうかという「哲学的考察」が浮かび上がるのです。
そして、その疑問は次のより本質的な「哲学的考察」を呼び起こします。

それは、この録音において、ドラティが明らかに「録音」のために仕えていることをどう評価するかです。

確かに、この作品においてプロコフィエフは19世紀的な「精神性」などは一切考慮してはいません。彼が求めているものは、「春の祭典」をも上回るような圧倒的なサウンドをいかにして実現するかです。
ですから、ドラティの指揮は、録音という営みが実現しようとするサウンドづくりの下請け作業に徹しています。少なくとも、私はその様に聞こえます。

おそらく、このサウンドに音楽的快感を感じられる人はそれでいいのでしょうが、聞き終わった後に言いようのない虚しさを感じてしまうものにとっては手放しでは評価できないものが残るのです。
もちろん、そう言う聴き方こそが19世紀的な教養主義の尻尾がついているからだと言われればそれまでなのですが、それでも、「春の祭典」を聞き終わった後にはこのような虚しさは感じないのも事実なのです。

音楽ソフトというのは音楽を聞くための手段であって、録音はそれを支えるというのが本来のスタイルであるべきです。目的は「音楽」であって、「録音」はどこまで行っても手段であるべきだと私は考えます。

その様な「録音」が「音楽」に奉仕する理想的な形が示されていたのがバルビローリのマーラーの9番でした。
あれは素晴らしいまでの自然さにあふれた録音だったのですが、その録音の優秀さは演奏の素晴らしさを聞き手に伝えるために徹底的に奉仕しているので、聞き手は演奏の素晴らしさのみに心が奪われて、その録音が優秀であることにすら気付かないのです。

それと比べれば、これはまさに真逆です。
音楽は録音によって極上のサウンドをつたえるための手段となっていますから、聞き終わった後には「凄い音」を聞いたと言う感覚は残るのですが、どんな「音楽」だったのかという記憶はほとんど残らないのです。それ故に、その様な録音を「優秀録音」と言っていいのかという疑問が起こるのです。

しかしながら、オーディオで聞きたいのは「音」であって「音楽」ではないと豪語する人もいます。
もっとも、そう言う価値観を持った人に対しては住む世界が違うと言っていつもは「回れ右」をしていたのですが、やはりこの問題はどこかでけりをつけた方がいいように思うのです。
何故ならば、オーディオに「音」を求めれば必然的にシステムは巨大化していきます。それは結果としてオーディオのハイエンド化をもたらし、多くの人をオーディオの世界から遠ざける結果を招いているとしか思えないからです。

プライス30万ドルの「Genesis 1」等は論外ですが、一般的にいって一本10万円のスピーカーでもほとんどの人にとっては、とりわけ若者にとっては非現実的なプライスでしょう。
それでも、音楽が好きで、何とか頑張ってそう言うスピーカーを中心に自分なりのシステムを作りあげた若い人に対して、君のようなシステムではこの超優秀録音盤は真っ当に再生できないよ、みたいな言い方につながるような録音を優秀録音盤として評価していいのでしょうか。
そして、そう言うハイエンドシステムが目指しているのが音楽的にはこの上もなく虚しいものであるとするならば、それは価値観の違いですといって回れ右はしてはいらけないように思うのです。

ですから、いささか強めの言葉かも知れないのですが、思うところを簡潔に述べれば以下のようになります。

私は、最近、オーディオの世界におけるハイエンドというのは「ガン細胞」みたいなものではないかと思うようになってきました。
このガン細胞がどんどんこの世界で増殖をして、真っ当なプライスで音楽を聞く楽しみを伝えることが出来る正常な細胞を駆逐しているのです。

そして、ガン細胞が愚かなのは、自分だけがどんどん増殖してて、最後は宿主を殺してしまって自分も死んでしまうことです。
そう考えれば、そう言う「ガン細胞」をせっせと増殖させることに力を傾注している宿主に対しては、どのような言葉を奉ればいいのでしょうか。

ですから、私は「TAS Super LP List」の「BEST OF THE BUNCH」にリストアップされているこの「スキタイ組曲」の録音は「優秀録音盤」だとは認めたくないのです。