全てのものは肥大化し巨大化します。
「進化」というものが持つベクトルの一つが「巨大化」であることは否定しようがありません。
それは、クラシック音楽においても一つの事実であり、古典派の慎ましい交響曲は20世紀の初頭には巨大化の果てに華々しく砕け散っていきました。
ハイドンやモーツァルトの初期シンフォニーは弦楽5部にオーボエ2本とファゴットが1本、そしてホルンが2本加わるくらいの慎ましいものでした。
それがベートーベンになると管楽器は基本的に2本使用され、それに伴って弦楽5部も増量され、さらには、フルート(ピッコロ)、クラリネット、トランペット、トロンボーンなどが追加され、打楽器としてティンパニーも常時参加するようになりました。
それがマーラーのシンフォニーになると、管楽器は基本的に4本使用されるだけでなく打楽器の種類も増えていき、さらには別働隊としての金管楽器群が用意されたりもしました。
そして、場合によってはそこに混声合唱とソリスト、さらにはオルガンなども追加されていきました。
しかし、それほど姿形を変えても、交響曲というのは「ソナタ形式を含む多楽章からなる管弦楽曲」と定義づければ、確かにそれらは全て「交響曲」というカテゴリにおさめることは可能です。
例えば、恐竜というカテゴリには全長が50メートルに達するほどに巨大なものから、1メートルにも満たない小さなものまでを含んでいます。
外見上は全く別物としか思えないその両者を「定義づけ」という手法によって同一の「カテゴリ」に入れてしまうと言うのは人間の素晴らしい知恵です。
そして、同一カテゴリに入れ込むことで相互に比較することが可能となり、その結果として「巨大化」が常に「滅び」と深く結びついていることに気づかされるのです。
巨大化したものはその圧倒的なパワーによって一つの時代を支配しているように見えるのですが、その巨大なパワーは必ず滅びに向かうという「真実」はしっかりと見すえておく必要があるでしょう。
そして、その「巨大化」と「滅び」の構図をオルガンという楽器おいて見事に描き出したのがこの「シャルル=マリー・ヴィドール」によるオルガン交響曲であり、マルセル・デュプレによる演奏なのです。
シャルル=マリー・ヴィドール:オルガン交響曲第6番「Allegro」 (Org)マルセル・デュプレ 1957年10月録音(マーキュリー・リヴィング・プレゼンス コレクターズ・エディション2 CD21)
TAS Super LP List が選んでいるアナログ・レコードのカタログ番号は「Mercury SR-90169」ですから、それは1958年にリリースされたMercuryの初期盤です。
中古市場でも3000円程度なので、入手しようと思えばそれほどの負担はかかりません。
収録されている録音は以下の通りです。
- Charles-Marie Widor:Organ Symphony No. 6, Allegro
- Charles-Marie Widor:Organ Symphony No. 2, Salve Regina
- Marcel Dupre:Prelude And Fugue In G Minor, Op.7
- Marcel Dupre:Tryptique, Op.51
率直に言って何とも中途半端な録音です。そして、その中途半端な録音の中から最も中途半端な「Allegro」だけが最優秀盤に選ばれています。
ただし、その中途半端な録音が「最優秀盤」に選ばれている理由はすぐに了解できます。
この「Allegro」が4曲の中では間違いなく最もオーディオ的だからです。
最弱音から最強音までのダイナミックレンジの広さ、地を這うような低音の響き、そして教会全体に広がる広大な音響空間などが見事にとらえられています。
そう言う意味では、これもまたオーディオ的虚仮威しかと思われる部分は否定できません。
一般的にオルガンの鍵盤は強く押そうが弱く押そうが、ピアノのようにその事によって音量や音色が変化するものではありません。ですから、通常はきわめてモノトーンな感じの音楽になってしまいます。
そこで、それではつまらないと言うことで追加されたのが「ストップ」と呼ばれる演奏用の補助装置でした。
オルガンはこの「ストップ」によって音の厚みを増すことで強弱の差を表現できるようになっただけでなく、多彩な音色をも獲得していきました。
そして、その様な門戸が一度開いてしまえば、あとは巨大化に向けて突き進んでいくだけです。
次々と新しい機能を持った「ストップ」が発明され、そう言う巨大化の果てに登場するのが「ロマンティック・オルガン」と呼ばれるオルガンだったのです。
それはもう、「一人オーケストラ」とも呼ぶべき楽器であり、そう言う「ロマンティック・オルガン」の中で最大規模を誇ったのが、ヴィドールが終身オルガニストをつとめたサン・シュルピス教会のオルガンだったのです。
そのオルガンには100前後のストップが装備されていて、それはもう航空機のコックピットのような雰囲気になっていました。
そして、そう言う巨大化したオルガンの効果を十全に使いきるために書かれたのがヴィドールによる「オルガン交響曲」だったのです。
残念ながら、この録音で使用されているオルガンはサン・シュルピス教会のオルガンではなくてニューヨークの5番街にある聖トーマス教会のものが使用されています。
しかしながら、聖トーマス教会のオルガンであっても、ヴィドールがロマンティック。オルガンを使って実現しようとした「人間世界の常識をこえるような巨大さ」を表現するには十分な機能を持っています。
ですから、それは一見すればオーディオ的な虚仮威しにおちいる危険性は内包していながら、それと同時に、「巨大化の果ての滅び」という美学をも主張していることももう一つの事実です。
おそらく、ここで一番問題になるのは地を這うようなオルガンの低音をどのように再生するかでしょう。
オーケストラでもそうですが、オルガンの低音もまた風のような軽さを持っています。
決して、ドスン・バスンというような、分かりやすい「迫力満点」の低音などとは一線を画する低音です。あのドスン・バスンという音はここで述べている低音と較べればもっと上の領域、中低音とも言うべき帯域の話です。
そして、オーディオにとって再現するのが途轍もなく困難なのが、この真の「低音」なのです。
しかし、それがある程度実現できれば、そこからは巨大化の果ての滅びを感じとることがが出来るであろうがゆえに、虚仮威しの虚しさからは免れているのです。
とは言え、スコアを見て確認してみると、8小節をこえて最低音を踏み続ける部分があります。この最低音は32フィート管が響かせる16Hzの低音です。
それを完璧に再生しようと思えば20Hzを超える領域までフラットに述べているシステムが必要という事になるので、「最低域まで十分に延びているシステムで、さらには耐入力もある大型システムが望ましい」などという常識的な世界とは異なる異次元のシステムが必要となります。
しかし、入力系の純度を上げておいてやれば、40Hz程度まで下が延びていればある程度満足できる再生が可能ではないかとも思われます。
16Hzという超低音の響きを求めているのはスコアで見る限りではごく一部であり、それをパスしてもこの音楽に内包されている滅びの美学を感じとる事は可能なはずです。
もちろん、そんなことを言えばオーディオに対する志が低いと叱られるかも知れないのですが、まあ一般ピープルにとって16Hzなんてのは無縁の世界ではあります。