「TAS Super LP List」をパブリックドメインで検証する(5)~モノラル録音の復権:モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 (Vn)ヨハンナ・マルツィ

「TAS Super LP List」は優秀録音のLPレコードをリストアップしているのですから、その大部分は「ステレオ録音」です。
それでは、リストアップされているレコードの全てが「ステレオ録音」なのかと言えば、そう言うわけではありません。

こんな事を指摘したって、「そりゃ、モノラル録音にもいいものがたくさんあるのだから、それは当然のことでしょう」と言われて終わりみたいなものですが、もう少し詳しく調べてみると、事はそれほど単純ではないのです。
現在、ネット上で確認できる「The TAS Super LP List」は以下の3年分です。

  1. TAS Super LP List 2017
  2. TAS Super LP List 2016
  3. The HP Super LP List (2014)

おそらく、2015年版が存在しないのは、このリストの生みの親であるハリー・ピアソンが2014年に亡くなったので、「TAS Super LP List」そのものの扱いについてのコンセンサスが作れなかったのでしょう。
このリストはハリー・ピアソンのコレクションの中から、ハリー・ピアソン自身が選び出したものだったのですから、ハリー・ピアソンが亡くなればそれとともに終わりをむかえるのが宿命みたいなものだったはずです。しかし、ハリー・ピアソンの鑑識眼の高さゆえにこのリストは長年にわたって更新され続けてきたわけであって、それ故にこのリストは優秀録音を語る上での「世界標準」となっていたのです。

その「世界標準」がハリー・ピアソンの死とともに消えてなくなるというのは大変な話であって、「ハリー・ピアソンが亡くなればそれとともに終わりをむかえるのが宿命」みたいな筋論だけでは収まりがつかなかったのでしょう。
結果としては、「Tas Staff」という「集団協議」のような形で2016年から新しい「TAS Super LP List」が更新されるようになったわけです。

ですから「The HP Super LP List (2014)」と「TAS Super LP List 2017」の間にはある種の「断絶」があるのです。
もちろん。新しくスタートした「Tas Staff」はハリー・ピアソンの価値観を引き継いではいるのですが、それをそのままなぞっているわけでもないようなのです。

そして、その「なぞっている」だけではない「断絶」が垣間見られるのが「モノラル録音」に対する扱いなのです。
私もチェックしてみて驚いたのですが、「The HP Super LP List (2014)」にはモノラル録音はただの一つもリストアップされていないのです。

つまりは、ハリー・ピアソンは「モノラル録音」は優秀録音だとは認めていなかったのです。
ですから、「Tas Staff」がハリー・ピアソンの価値観をなぞっているだけならば、今後も「モノラル録音」は「TAS Super LP List」にリストアップされることはなかったのです。

Penderecki: Sonata for Cello and Orchestra. Muza XW576 (mono)

しかし、「TAS Super LP List 2016」には「Penderecki: Sonata for Cello and Orchestra. Muza XW576 (mono)」がモノラル録音としてはじめてリストアップされているのです。
オリジナルリリースが1965年でモノラルというのも驚くのですが、それでも「TAS Super LP List」にはじめて登場したモノラル録音と言うことで大きな意義を持つ一枚だったと言えるでしょう。

そして、この方向性は「TAS Super LP List 2017」で一気に拡大することになります。
「Classical」部門だけで7点のモノラル録音が「SPECIAL MERIT」にリストアップされることになります。

  1. Bartok: Violin Sonata No. 1/Mann, Hambro. Bartok Records No. 922 (mono)
  2. Mozart: Violin Concerto in D, K. 216/Martzy, Jochum, Bavarian State Radio. Coup d’Archet 002
  3. Nixon: String Quartet No. 1/California String Quartet. Music Library Recordings MLR 7005
  4. Penderecki: Sonata for Cello and Orchestra. Muza XW576
  5. Rosen: String Quartet/New Music String Quartet. Epic LC 3333 (mono)
  6. Schoenberg: Pierrot Lunaire/Virtuoso Chamber Ensemble. Argo RG 54 (mono)
  7. Webern: Complete Works/Craft. Columbia K 4L 232 (mono)

さらに、「Informal」部門でもこの年からモノラル録音がリストアップされるようになり、「The Beach Boys」「The Beatles」「Bob Dylan」「Duke Ellington」「Frank Sinatra」というビッグネーム達の古き良き録音が一気に11点もリストアップされるようになるのです。

おそらく、ハリー・ピアソンがこの世を去った後の「TAS Super LP List 2016」でおずおずと1点だけリストアップしたのは様子見のアドバルーンみたい鯛名ものだったのでしょう。そして、そう言う寛容の気球を打ち上げたところ、意外なほどに反応が良かったので、その翌年の「TAS Super LP List 2017」では堰を切ったように一気に18点のモノラル録音が追加されることになったのでしょう。

そして、最近発表された「TAS Super LP List 2018」の「New Entries」では、残念ながら「Classical」部門でのモノラル録音の追加はなかったのですが、「Informal」部門でさらに5点のモノラル録音が追加されているのです。

ですから、「TAS Super LP List」にリストアップされているレコードの全てがステレオ録音なのかと言えばそう言うわけではありませんと最初にサラッと書いたことは、実は「優秀録音」とは何かを考える上での一つの転換点だったのです。

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218 (Vn)ヨハンナ・マルツィ オイゲン・ヨッフム指揮 バイエルン放送室内管弦楽団 1955年9月4日録音(ヨハンナ・マルツィ EMI&DG録音全集:CD13)

さて、冒頭のオーケストラ伴奏が聞こえてくると、スッキリとした響きで分解度も高くて悪くはないとは思うのですが、それでもこれをわざわざ「SPECIAL MERIT」にリストアップするほどのことはないだろうと思うはずです。
私もそう思いました。

しかし、その協奏曲における「お約束」である管弦楽による前奏という露払いが終了してマルツィの独奏ヴァイオリンが入ってくると度肝を抜かれます。
まさに日本刀の切れ味のごときヴァイオリンの響きが聞き手の耳を直撃します。

そうなのです、ここにはオーケストラと独奏楽器のバランスなどと言う概念は全く存在せず、ひたすら独奏ヴァイオリンの素晴らしい響きに焦点を据えている録音なのです。そして、ヨッフムの棒も、そう言うマルツィのヴァイオリン独奏を引き立てることに全力を注いで居るのです。
そして、その驚きの頂点が第1楽章の最後に置かれたカデンツァです。
あまりにも手垢のついた表現なのですが、まさにカミソリのごとき切れ味であり、さらに言えば、驚くべき録音のクオリティの高さのおかげもあって、それは名刀の切れ味にまで格上げされているように聞こえるのです。

そして、第2楽章の「Andante cantabile」にはいると、今度は一転してマルツィの十八番である優美な響きを惜しげもなくふりまいてくれています。
そして、その響きこそが、彼女がバッハの無伴奏で振りまいてくれた魅力なのですが、ここではそれがより美しくすくい取られているのです。

それでは、この素晴らしい録音を成し遂げたチームは誰だったのかと調べてみると、プロデューサーが「Fred Hamel」、エンジニアは「Karl-Heinz Westphal」とクレジットされています。
レーベルは「Deutsche Grammophon(ドイツ・グラモフォン)」です。
そして、録音に使われた会場は「Amerikahaus, Munchen」となっています。

この建物は現在も使用されているようなのですが、イベント紹介などをチェックすると講演会などがメインのようでコンサートが行われることは少ないようです。
つまりは、優秀録音を考える上での幾つかの必須要素、優れた録音エンジニア、優れた録音会場、そして優れた録音哲学を持っているレーベルと言うことに関して言えば、あまり満たしているとは思われないようなラインナップなのです。
ただし、最も重要な「優れた演奏家」という要素は十二分に満たしています。

マルツィと言えば「Walter Legge & EMI」という組み合わせの録音が中心なのですが、録音クオリティという点では今ひとつさえないものが大部分でした。そして、レッグとの関係が上手くいかずに60年代の初め頃にはソリストとしての第一戦から姿を消してしまいました。

レッグという人は録音のクオリティと言うことに関しては余りよく分かっていない人だと言われるのですが、演奏家の資質を見抜くことに関しては素晴らしい鑑識眼を持っている人でした。そして、その見つけ出した才能を磨き上げて一流に育ていく上でも大きな才能を持っていました。そんなレッグが見誤った最大の存在がこのヨハン・マルツィでしょう。

そして、その事はマルツィ自身にとってもとんでもなく不幸なことだったのですが、それでも心ある多くの聞き手は、彼女の初期盤LPに対して時には100万円を超えるような価格をつけることで再評価をし、賞揚してきたのです。
それだけに、数は少なくても、こういう奇蹟のような形でドイツ・グラモフォンが優秀録音を残してくれたことには感謝するしかないのです。

Amerika-Haus Karolinenplatz Munchen