ColumbiaのJohn McClure(2)~ブラームス:交響曲第4番

意外と音がいいワルターのコロンビア響盤

ワルター最晩年のコロンビア響との録音に関しては様々な評価が為されてきました。
演奏に関していえば、ブラームスの4番やベートーベンの田園、マーラーの巨人のように「名演」の誉れの高いものも存在しますが、あまり評判がよろしくないものも少なくありません。
曰く、オケの編成が小さくて響きが薄い、曰く、功成り名を遂げた巨匠の手すさびの芸、曰く、ワルター本来の持ち味が発揮されていない、等々です。

また、録音に関しても、ワルターのために特別に編成されたコロンビア響は通常のオケと比べれば編成がやや小振りだったので、マーラーなどの録音では響きが物足りなくなって、編集の過程でそれらしくなるように手を加えたりしているのではないかという疑惑も囁かれてきました。
実際、アナログ末期に1300円の廉価盤としてリリースされたレコードの音質はあまり芳しいものではありませんでした。

40年ほど前は、レコードは新譜で2800円、再発で2000円、もう一声安いもので1800円というのが通り相場でした。
そんな時代に、このワルターやセルの録音が1300円で発売されていて(それ以外ではEMIのエンジェルシリーズというのが1300円でした)、金のない若者にとっては有り難い廉価盤でした。
しかし、当時は、それらのアナログレコードを聴いて録音がいいと思ったことは全くありませんでした。

Bruno Walter

おそらく、1300円という廉価盤ゆえの盤質の悪さと再生装置のチープさが相乗効果を発揮したのが原因でしょう。

しかし、そのような批判にはそれなりの根拠があることは認めながらも、最近ではあれこれ言われてきたほどには演奏も録音も悪くないのではないか、いやそれどころか、驚くほど録音のクオリティは高かったのではないかとと言われるようになってきました。

おそらく、その嚆矢となったのが嶋護氏によるマーラーの1番への言及でしょう。
嶋氏は、CD黎明期にジョン・マックルーア本人によってマスタリングされた音源の優秀さについて「この誰もが知っているCDを優秀録音として進めることを奇異に感じる人は少なくないだろう。有名な名演だけれど、録音はそんなに優れていたっけ」という書き出しで言及したことが大きな潮目となったことは間違いありません。

嶋氏はその録音について以下の3点を優秀さの根拠としています。

  1. ダイナミクスの広さ
  2. サウンドステージの展開
  3. 透明な内部ディテール

ただし、嶋氏に関してはあれこれ毀誉褒貶があることも事実です。
その中でも一番の疑問点は、例えばこのマーラーの録音に関しても「十分なパワーと高いリニアティを備えたハイエンドギア」で再生しなければその真価は分からないといいながら、自らの再生環境については一切言及していないことです。

いわゆるオーディオ評論家と言われる人たちが、自らの再生環境を一切明示しないで録音の良し悪しを述べるなどと言うことは考えられないのであって、そう言う常識から考えれば氏のスタンスは「アンフェア」と言わなければなりません。
他人様の作ったものの良し悪しを論ずるならば、少なくとも自分の手の内は明らかにして論ずるというのが最低限のフェアな態度だと思われるのですが、何故か氏はそれを頑なに拒否しているように見えるのです。

確かに、再生環境を明示したからと言って、それと同じ機器を買い込んできてポンと部屋に置いただけで同じ音がするほどオーディオは甘くないというのは当然です。
ですから、好意的に解釈すれば、再生環境の明示は何らかのミスリードを招きかねないという主張も成り立ちます。それよりは、こういう種々のオーディオソースの違いを詳述することで、そう言う違いを描き分けることの出来る環境で聞いていますということを逆説的に証明しているという主張も成り立つのかもしれません。

ネット上を散見すればこういう批判は結構目にしますから、それが氏の耳に届いていないはずはないと思うのですが、それでもその姿勢は変えようとはされていないので、取りあえずは好意的に受け取っておこうかと思います。

これを好録音と評する人は殆どいないのですが

嶋氏の言及を受けて、ワルター最晩年の録音から、「これも意外といいね」という声がポチポチと聞こえるようになってきたのですが、このブラームスの名演中の名演とも言うべき第4番に関して「録音がいい」という声は聞いたことがありません。

ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 作品98::ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1960年1月16日&23日録音 (30DC 783)

ワルターのコロンビア盤の一番の特徴は、嶋氏も指摘しておられるように、オーケストラの各楽器が内部で何をやっているかを見事に描き出している事です。
もちろん、テープヒスなどが気になる部分はありますが、その見通しの良さは最新の録音と比べてもほとんど遜色を感じないレベルに達しています。

そして、その良さが廉価盤のレコードではスポイルされてしまっていたのです。
アナログからデジタルにマスタリングされるときに、少なくともその部分は大幅に改善されたことは間違いないようで、その点に関しては必ずしもマックルーアが直接マスタリングに関わったCDでなくても十分な恩恵にあずかることが出来ます。

そして、その点についてもう一つ気づいたのは、この内部の見通しの良さは「録音」のクオリティだけに誉が行くのではなくて、コロンビア響の能力の高さこそが評価されて然るべきだと言うことです。
アナログ時代の録音の悪さで、最も被害を被ったのはコロンビア響だったのかもしれません。

コロンビア響と言えば、長年にわたって響きの薄さやアンサンブルの雑さが批判されてきたのですが、デジタルになって本当の姿がベールの向こうから蘇ってみれば、なかなかどうして、立派なオケです。

ワルターは声部のバランスとテンポ設定だけを指示しているだけで、細かいところはオケに任せているような雰囲気がします。
その結果、オケの編成の小ささも相まって、ワルターが持っている伝統的な美意識とオケが持っている現代的でシャープな造形意識が絶妙に融合して、実に不思議な世界が出来上がったのです。

ただし、その響きの質は、私たちがワルターという指揮者から連想する響きからすればいささか違和感を覚えるかもしれません。
おそらく、ワルター自身も最初は違和感を感じたとは思うのですが、既に一度は引退を表明した指揮者にとって、オケの響きを一から作り直すというような骨の折れる仕事は願い下げにしたかったでしょう。

そこで、彼は響きの問題は棚上げにして、それよりは彼の愛した音楽をじっくりと歌い上げることに力を傾注したようです。
40年代から50年代前半の、現役バリバリだった頃の演奏と比べてみると、そのどれもが遅めのテンポで、一つ一つのメロディを実に念入りにじっくりと歌い上げていることが聴き取れます。

もしかしたら、ワルターはこのオケの響きを次第におもしろがって、好きに振る舞わして自分も楽しんでいたのかもしれません。
アメリカ西海岸のカジュアルなファッションを身にまといながら、伝統的なヨーロッパのスタイルで歌っているというのは興味深く面白みのある組み合わせです。

そして、そのスタイルこそがこの録音の透明な内部ディテールに結びついたことは明らかです。

しかしながら、その様な勢いのある見通しの良い響きでブラームスの4番が蘇ってみると、従来言われてきた演奏のイメージが随分かわってしまっていることも事実です。
何しろこの録音は「クラシック不滅の名盤」において「究極の100タイトル」の一枚としてノミネートされているのです。
そこでは「長い人生を耐えてきたものにようやく訪れた晩秋」であるとか「すべてが濃い晩秋の色」に染まっていると述べられているのです。

ここで聞くことができるようになってしまったブラームスはその様な晩秋の佇まいとは随分違ってしまっています。
これは考えてみれば恐ろしいことです!!

しかし、ブラームスがこの作品に封じ込めたのはその様な「諦念」ではなかったと思えば、見え方はガラリと変わります。

ブラームスはあらゆる分野において保守的な人でした。そのためか、晩年には尊敬を受けながらも「もう時代遅れの人」という評価が一般的でした。
この第4番の交響曲はそういう世評にたいするブラームスの一つの解答だったとも言われています。

形式的には「時代遅れ」どころか「時代錯誤」ともいうべき古い衣装をまとっています。とりわけ最終楽章に用いられた「パッサカリア」という形式はバッハのころでさえ「時代遅れ」であった形式です。
それは、「反論」と言うよりは、もう「開き直り」と言うべきものでした。

しかし、それは同時に、ファッションのように形式だけは新しいものを追い求めながら、肝腎の中身は全く空疎な作品ばかりが生み出され、もてはやされることへの痛烈な皮肉でもあったはずです。

そして、このワルター最晩年のブラームスは、その様な「闘う男」だったブラームスの姿をはっきりと浮かび上がらせているのです。
この洗い直されたブラームスから聞こえてくるのは「諦念」ではなくて「ファイティングポーズ」です。

興味深いのは、かつてはこの録音を「究極の100タイトル」の一枚に選んだ人たちが、このように洗い直されたブラームスをどのように受け取るかです。

「再生芸術」の難しさここに極まれりです。


返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です