前回はグールドによるバッハのコンチェルトを「SPECIAL MERIT」にリストアップしているのは「鷹揚にすぎる」と述べて、それでも
「バッハのピアノ(チェンバロ)協奏曲というのは人類にとってはかけがえのない遺産です。
そのかけがえのない遺産が、グールドという希有の才能によって全く新しい姿を示したこの録音の意義を考え合わせてみれば、57年から69年にかけて録音された全ての音源をひっくるめて「合わせ技で一本」という判定をしたのかも知れません。」
としておきました。
そして、ほぼそれと同じ事が言えそうなリストアップが、このリヒテルとロストロポーヴィッチによるベートーベンチェロソナタの全曲録音です。
ベートーベン:チェロソナタ全集 (Vc)ロストロポーヴィッチ (P)リヒテル 1961年~1963年録音(Philips/Speakers Corner EURO2920)
リストアップしている音源は「Philips/Speakers Corner EURO2920」という復刻盤LPです。
そこでふと気づいたのですが、グールドのレコードも、このリヒテル&ロストロポーヴィッチも復刻盤のLPがリリースされていて、その復刻盤LPが現役盤として流通していると言うことです。
考えてみれば、どれほど音質のいいレコードであっても、それが中古市場でしか入手できないとなると、さらに言えばそのレコードに高値がついていれば容易に入手できないことを意味します。
何故ならば、「高値」がついていると言うことは中古市場において殆ど流通していないことを意味しているからであって、お金だけで解決できない面もあるからです。
そう言う意味で言えば、そのような入手困難なレコードを「優秀録音盤」としてリストアップしても意味がないと言うことにつながりますから、現役盤として普通に流通している音源にある程度の「嵩上げ」がされることは仕方のないことなのかも知れません。
ただし、このチェロ・ソナタの録音をどのように評価するのかは、実はかなり難しい問題をはらんでいることも事実です。
何故ならば、ベートーベンのチェロ・ソナタというのは、彼の他の作品群と較べると少し毛色の違う音楽だからです。
ベートーベンの一番の特徴は言うまでもなくデュナーミクの拡大です。
デュナーミクとは、音楽演奏における音量の強弱表現のことです。
ベートーベンはその強弱の幅を一気に拡大することによって古典的な均衡ではなくて人間的感情の発露を極限にまで押し広げました。それは、誰が言い出したのかは知りませんが「苦悩から歓喜へ」というキャッチフレーズにもいい現れされていることです。
そして、次々と楽器を積み重ねていくことによって壮大な音楽的頂点をつくり出して見せたのですが、それは、音楽的には人間的感情の爆発であり、その事は同時に壮大な演奏効果にもつながっていったわけです。
ところが、このチェロソナタでは、そう言う華々しい演奏効果が前面に出る事はありませんでした。
それは、音楽的に言えば感情は爆発するのではなくて沈潜していく事を意味しています。
それをオーディオ的に言い換えれば、要求される要素が小さいことを意味します。
所詮は楽器2台で展開される音楽ですし、さらに言えばその音楽はひたすら内へ内へと沈潜していくのですから、広大なサウンド・ステージも要求されなければダイナミック・レンジの広さも要求されません。
さらに言えば、楽器の分離と言うこともチェロとピアノの2台なのですから殆ど問題になることはないはずです。
つまりは、オーディオ的に美味しい部分などはほぼ皆無の音源なのです。
そうなると、聞き手としては何を求めたいのかと言えば、まさに眼前でリヒテルとロストロポーヴィッチが演奏しているかのような疑似体験を実現することです。
考えてみれば、どれほど優秀で豪奢な再生ステムを用意しても、マーラーやワーグナーのような音楽を等身大で再現することは不可能です。
それがごく普通の一般庶民ならば、古典派の小ぶりの管弦楽曲でも不可能です。
しかし、編成の小さなな室内楽曲ならば、その様な疑似体験は一般庶民でもかなりの部分で肉薄可能です。
いや、きっと多くの人はそれを目指して精進を続けてこられたのだと思います。
私などは、弦楽四重奏曲あたりまでは、その様な疑似体験ができないものかとチャレンジを続けてきました。
そして、時にはそれが実現したような気がするときもあるのですが、次の日になればそれはただの勘違いであることに気づかれるものです。
つまりは、編成の大きな管弦楽や合唱を伴った音楽と、編成の小さな器楽曲や歌曲、室内楽曲ではオーディオ的に要求するポイントが異なるのです。
そう考えれば、こういうオーディオ的に要求される要素の少ない音源というものは、どこまで実演さながらのレベルで再生できるのかにチャレンジしてみるにはピッタリの音源なのかも知れません。
ただし、私の中ではこのリヒテルとロストロポーヴィッチによるチェロ・ソナタの演奏は「立派にすぎる」という感覚が拭いきれません。
実は、これと同じような感覚はオイストラフとオポーリンによるヴァイオリン・ソナタにも感じてきました。
このあたりの評価は人ぞれぞれによって異なるのでこれ以上はふれませんが、個人的に言えば、実演さながらに再生できたとしてもどこか嬉しくない部分がある演奏なので困ってしまうと言うことは正直に申し述べておきましょう。
ベートーベン:チェロソナタ全集 (Vc)ロストロポーヴィッチ (P)リヒテル 1961年~1963年録音
この演奏(録音?)を”立派にすぎる”と評するのは私も理解できます・・・・ただ、その”立派すぎる”要因の一部はこれらの曲自身がもっている”立派すぎる”性格にもあるような気がしますが・・・・(そのせいか、私はカザルスの演奏にもフルニエの演奏にも”立派すぎる”ものを感じてしまうことがあります)。
そのこととも多少関連しますが、ロストロポービッチ/リヒテルによるベートーヴェンでは彼らが1964年にエジンバラで行った全曲演奏会の実況録画が私にはとても興味深いものでした。フィリップスとの録音から1年と経っていない時期の演奏ですが、各楽章のタイミングなどを始めとして演奏の印象がかなり違います。表情の幅が随分拡大されていて、視覚を伴うせいもあって全曲とてもスリリングな演奏になっている。
勿論、スタジオでのセッションとライブの違いと言うのがあるのでしょうが、それ以上に彼らにとって全ての演奏と言う行為が一期一会のものだったということではないかと感じます(・・・・その意味では、フィリップスでの録音も彼らにとっては一回限りの行為だった)。
役者のフル・メイキャップでの演技とスッピンでの演技の違いのようなものとも言えますが、見(聴)ている方にとっては名優の演技はどちらにも夫々の味がある。或いは、ワルターのニューヨーク・フィルとの録音とコロンビアとの録音とか、バックハウスのモノラル録音とステレオ録音とかに、私は彼らの公式見解と私的告白の違いのようなものを感じますが、このロストロポービッチ/リヒテルの公式録音とライブ録画もソレに似た違いかとも思います。
加えて、”録音”と言う観点からいえば、エジンバラの音は当然フィリップスとの録音とは比べ物にならない貧相なものですが、エジンバラでの演奏を聴いて、フィリップス盤を改めて聞くとソレまで聴こえなかった面白さを感じたりすることもあるので、録音のクオリティと演奏のクオリティの関係と言うのもつくづく油断がなりません。